月刊正論:12月号から  
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産経新聞社「月刊正論」からEISへの提供コラムです。
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  (P92〜99)
「一極覇権」終焉のあとに訪れるもの
米新大統領が背負うブッシュ政権8年の"遺産"
日本は「無極化」する世界に対する備えを一刻も早く始めよ
  国際ジャーナリスト 菅原 出(すがわら いずる)
(略歴)
 菅原 出氏 昭和44(1969)年、東京都生まれ。中央大学法学部政治学科卒。平成6年よりオランダ留学。同9年アムステルダム大学政治社会学部国際関係学科卒。国際関係学修士。在蘭日系企業勤務、東京財団研究員を経て現職。英危機管理大手アーマーグループ取締役を兼務。米国を中心とする外交・安全保障が専門。著書に『アメリカはなぜヒトラーを必要としたのか』(草思社)。『外注される戦争』(同)など。

  「負債」は金融分野だけではない

 米国に端を発した金融危機は、瞬く間に世界に波及して大恐慌以来の金融危機を引き起こし、戦後半世紀以上にわたって世界経済を支えた国際金融システムそのものを根底から揺さぶっている。
 相次ぐ大手金融機関の破綻などにより今回の金融危機の引き金を引いた米国は、欧州やロシアなどから強い批判を受け、国際社会における影響力や指導力を問われはじめている。来る米大統領選挙では、この金融危機にいかに対処するかが最大の争点となっており、「変化」を強調するバラク・オバマ民主党候補が有利な立場に立っている。いずれの候補者が大統領になろうとも、根底から綻びを見せている国際金融システムの再建と安定、それに米国経済の建て直しが次期大統領に託された使命であることは間違いない。
 この金融危機をめぐる報道で見過ごされがちだが、次期大統領が背負わなくてはならない「負債」は金融分野に限らない。ブッシュ政権が過去8年間にわたって「総力」を注ぎ込んで取り組んできた対テロ戦争が、次期大統領に大きな「負の遺産」を残そうとしているのである。
 アフガニスタンとイラクという「対テロ戦争」の最前線で、米国がこれまで進めてきた戦略が根底から崩れようとしている。対北朝鮮政策をめぐる「方針転換」とそれに伴う同盟国の対米不信は単なる氷山の一角でしかない。ブッシュ政権が対北朝鮮政策の何十倍もの資源と労力を注ぎ込んできたアフガニスタンとイラクで、米国が進めてきた戦略が破綻し、その影響力が急速に低下し、同盟国が米国との距離をとり始め、これまでの国際政治の秩序に大きな変化が起きているのである。
 次期米国大統領は、外交・安全保障の分野でどのような「負の遺産」を引き継ぎ、いかなる世界と直面することになるのか。まずはアフガニスタンの現状から検証していこう。

「このままでは勝てない!」英軍司令官の叫び

 2001年10月のアフガン戦争開始から7年が経過したものの、この国の治安は一向に回復しないどころか、08年の反政府タリバン勢力による攻撃数は、昨年を30%も上回り、タリバンの影響下に置かれた地域は同国の地表面積の実に3分の1にまで拡大している。タリバンの拠点である南部に止まらず、今や首都カブールや北部でも治安は目に見えて悪化している。ヘロイン生産および貿易の拡大、カブール中央政府の地方への影響力の限界、隣国パキスタンからの武装勢力の流入など、治安悪化を招く環境はさらに悪化していると言っていい。
 今年の9月10日には、統合参謀本部議長のマイケル・モレン提督が下院軍事委員会で証言し、アフガニスタンでの軍事戦略の見直しの必要性を主張。「我々はアフガニスタンで勝っているとは思わない。勝つことが可能だとは信じているが・・・」と本音を覗かせる発言をし、続く10月9日には記者団の質問に対して、「全般的にアフガニスタンにおける状況は良い方向には向かっていない、来年はさらに厳しい年になるだろう」との暗澹たる見通しを明らかにした。
 こうした状況を受けてNATOの国際治安支援部隊(ISAF)司令官デヴィッド・マキアーナン大将は、1万5000人の兵力追加を米国防総省に要求し、ヘリコプターや無人機などの装備もまったく足りていないと訴えた。こうした軍の意向を受けてブッシュ大統領も米・NATO両軍司令部に対し、対アフガニスタン戦略の全面的な見直しを命じている。これまでの戦略がうまくいっていないことをブッシュ大統領も認めざるを得ない状況なのである。
 さらに深刻なのは、NATOの同盟国の間で、「このままでは勝てない」という認識が固定化しつつあり、タリバンとの交渉を進めるべきだとの声が強くなっていることである。
 とりわけ英国の外交、軍事、諜報サークルが「交渉路線に転ずべし」というメッセージをあらゆるソースを使って盛んに流している。例えば10月5日の『サンデー・タイムズ』紙が報じた記事である。同紙は駐アフガニスタン英軍最高司令官の悲観的なコメントを大々的に報じたが、それによると、最近アフガン南部で6カ月間のミッションを終え、32名の部下を失った第16航空攻撃旅団のマーク・カールトンスミス司令官(准将)は、「我々はこの戦争には勝てない。アフガン軍が対応できるレベルまで反乱勢力を弱めるだけで精一杯だ」と発言。同准将はまた「アフガンではもはや決定的な軍事的勝利を期待するのは間違い」であり、「NATOがアフガニスタンから武装勢力を一掃することは非現実的であると認識することが重要」であり、「タリバンが交渉の席に着く用意があるなら、それこそが戦闘終結に向けた前進だ」との見解を明らかにしたのである。
 実はこれに先立つ10月1日、フランスの新聞も同様の主旨の記事を掲載して話題を呼んでいた。これはフランソワ・フィトゥ駐カブール仏次席大使が本省に送った外交電報の内容が新聞にリークされたもので、内容はシェラード・クーパーコールズ駐カブール英大使の見解を報告しているものだった。これによるとクーパーコールズ英大使は「西側はタリバンとの戦争に負けている。連合軍は5年から10年以内にはこの国の支配を『許容範囲内の独裁者』に任せざるを得ないだろう」との驚くべき見解を示し、「我々は米国を支持する以外に道はないが、負け戦ではなく勝つ戦略の一翼を担いたいのだということを彼らには伝えるべきだろう」と述べたとされる。
 もちろん英国政府はこの報道を否定している。が、先の英軍司令官の発言と併せて考えてみるとこんな推測ができないか。「英仏両政府はメディアを使って彼らの本音を流布させ、対アフガン戦略の見直し作業を進める米国政府に揺さぶりをかけている」と。いずれにしてもアフガニスタンの対テロ戦争のアプローチをめぐっては、NATO加盟国内の足並みは大きく乱れており、米国の進める対テロ戦略の見直しを求める声が同盟国の間でも強まっているのである。

タリバンとの交渉をサウジが仲介

 さらにこれと連動するタイミングで9月30日、カルザイ・アフガニスタン大統領が「タリバンとの和平の仲介をサウジアラビアに依頼した」と発表して世間を驚かせた。「サウジ仲介によるカルザイ政権とタリバンの秘密交渉」については、この2日前に英『オブザーバー』紙がスクープをしており、カルザイはこの報道を認める形で事実を明らかにした。
 カルザイ大統領は、米主導の軍事作戦だけでは問題は解決できないとの認識から、すでに2年程前からサウジを仲介してタリバンに和平を呼びかけていたという。またパキスタンの『ザ・ニュース』紙によれば、カルザイ政権はサウジと同時にパキスタンにも特使を送ってタリバンとの仲介を依頼しており、ナワズ・シャリフ元パキスタン首相がサウジと協力してこの交渉の裏方役を務めているという。
 サウジとパキスタンと言えば、1980年代のアフガン戦争時に、ソ連と戦うイスラム戦士(ムジャヒディン)の支援を米CIAや英M16と共同で行い、ソ連のアフガン撤退後はタリバンの台頭を助け、9・11テロ勃発まで同政権との関係を維持した世界で数少ないタリバンの支援国だった。
 サウジとパキスタンが育てたタリバンと、その庇護の下で増長したアルカイダというテロリスト集団に支配されたアフガニスタン。この破綻国家を根本的に変えるために米国は兵を出し、タリバン政権を倒してカルザイ政権を作ったはずだった。それがその戦争から7年を経て、どうやら歯車は逆回転を始めたようである。
 超大国米国はアフガンでタリバンという非国家主体を倒すことができず、根本的な戦略の見直しを迫られている。NATOの同盟国の間でも足並みは乱れ、敗北主義が蔓延し、一方でサウジやパキスタンが仲介する和平交渉が進められている。これが次期米大統領の直面する世界の偽らざる現実である。

イラクの治安は回復したのか

 では「対テロ戦争」のもう1つの前線イラクはどうなっているのだろうか?
 確かにイラクの治安はここのところ劇的に改善しているように見える。2007年のピーク時と比較して米軍やイラク政府に対する武装勢力による攻撃数は80%近くも減っている。「激減」と表現しても良いだろう。ブッシュ大統領やチェイニー副大統領は、「米軍増派が成功した結果だ」と繰り返し主張しているが、その言葉をそのまま信じても良いのだろうか。
 イラク戦争の主要戦闘終了後、米国の占領行政とそれに続くイラク新政府の支配に最も強く反対し、武装反乱の中心的役割を担ってきたのは、旧サダム・フセイン政権時代に支配的な地位にあったイスラム教スンニ派のグループであった。
 旧バース党員や旧軍人を多く含むスンニ派は、シーア派が中心の新政府から疎外され、新しい政治プロセスから締め出され、政治的、経済的な権益を失っていた。このためバグダッドやアンバル県などスンニ派が多数派を占める地域で、最も激しい反米・反政府武装闘争が繰り広げられたのである。こうしたスンニ派の反乱という混乱状況に乗じて、近隣のサウジアラビアなどから外国義勇兵(いわゆるアルカイダ)がやってきて自爆テロなどを行い、さらに状況を悪化させたのである。
 米国が「増派戦略」の隠し球として2007年初頭以来進めてきたのは、実はこのスンニ派の反乱武装勢力を取り込むという作戦だった。首都バグダッドを中心にスンニ派地域の治安を回復するには、政治プロセスから排除されているスンニ派を何らかの形で取り込むしかない。
 一方のスンニ派武装勢力も、外国からやってくるアルカイダの目に余るテロに嫌気がさしたのと、現シーア派マリキ政権に対するイランの影響力の高まりに危機感を強め、米軍に共闘を申し出たという訳である。
 地元に根づいたスンニ派の部族を中心とする集まりは「覚醒評議会」と呼ばれ、そのメンバーである民兵組織は「イラクの息子たち(SOI)」と名づけられ、彼らが治安回復の立役者となった。その数は10万人を超える。
 米軍はこの10万人のメンバーに、1人あたり月300ドルから600ドル程度の月給を支払い、イラク軍や警察とは別の自警団を組織させたというわけだ。過去数年間、激しい反米武装闘争を行ってきたスンニ派武装勢力を、逆に地域の治安要員として雇うこのプログラムは大成功し、バグダッドを中心にスンニ派地域の治安が劇的に改善していった訳である。

スンニ派民兵の取り扱いひとつで宗派抗争が再燃

 ところが、このプログラムに不満を募らせてきたのが現在のシーア派を中心とするマリキ政権である。彼らからすれば、自分たちを長年苦しめてきた旧サダム政権の残党たちを含むスンニ派の武装勢力に武器や資金援助するなど許しがたい行為であり、米政府に対しこのプログラムの廃止を訴え続けてきた。国家建設を進めるマリキ政権としては、政府の軍や警察とは別に武装した民兵組織を放置しておくことは、国家建設にとって大きな障害でしかない。「国家建設を進めろといいながら民兵組織に武器援助をするのは矛盾しているではないか」とマリキ政権は米政府を批判してきたわけである。
 米軍はSOIのメンバーたちを正式なイラク軍や警察の職員として受け入れるようにマリキ政権に対して圧力をかけてきたが、同政権はこの案に消極的であり、実際に警察などに正式採用されたのは10万人を超えるSOIのうち1万人程度しかいないという。米軍は何とかSOIの全メンバーのうち20%くらいは警察などで正規雇用するようにマリキ政権に圧力をかけてきたが、同政権は逆にこの資金援助プログラム自体の運営を米軍から奪い取って自分たちで運営したいと主張をし、米軍とマリキ政権の間で綱引きが続いていた。
 米軍側はもしマリキ政権がこの資金援助プログラムの運営権限を握れば、すぐにこのプログラムを廃止し、SOIに対する給与の支払いを止めることを恐れ、この権限の移譲に反対し続けてきた。この7月の時点で米軍は2009年夏にSOIを解散させる方針を決め、少しずつ段階的にSOIへの資金援助プログラムを縮小させ、その間にSOIメンバーたちの再就職を斡旋する計画を立てていた。
 ところが、この10月1日付で急遽SOIに対する資金援助プログラムがマリキ政権によって運営されることが決まった。当然誰もが懸念するのが、「マリキ政権はこのプログラムを廃止して、SOIのメンバーに対する給与の支払いを止めてしまうのではないか」ということである。このプログラムを急に廃止してしまえば、「短期間警備員アルバイト」として曲がりなりにも月給を得ていたSOIのメンバーたちが一気に失業者になってしまう。数万人規模の武装した若者たちが失業に追い込まれ、「米軍に裏切られた」と感じ、シーア派マリキ政権に対する恨みをさらに強めるとしたら、このスンニ派の若者たちが、再び武装反乱を起こすのは火を見るより明らかである。
 これまでのところマリキ政権は「資金援助を急にストップすることはしない」と約束しているが、SOIの幹部多数に対する逮捕状が出ているという噂も飛び交っており、SOIのメンバーたちは同政権に対する不信感を募らせている。9月末から10月初頭にかけて大規模なテロがバグダッドで再発するようになっているのは、こうした背景からではないかと治安関係者は不安を募らせている。
 9月30日に発表された米軍の報告書は、「SOIを統合できるかどうかがイラク治安問題の最大の課題である」と書いており、ブッシュ大統領と比べるとはるかに慎重に現状を分析している。また現在米情報コミュニティが作成中の国家情報評価(NIE)も、今後のイラクの治安情勢には相当悲観的な見通しを示しそうだと伝えられている(10月7日付『MaClatchy Newspaper』)。
 ブッシュ政権や共和党の大統領候補は、「イラクの勝利」を声高に主張するが、イラクの一時的な治安回復の正体は、これまで米軍に抵抗していたスンニ派の武装勢力を「買収」し、彼らに治安維持の「アルバイト」をさせていたというのが実態であり、シーア派とスンニ派の対立の火種がくすぶるイラク情勢は依然として非常に不安定である。このスンニ派民兵組織の取り扱いをひとつ間違えただけで、宗派抗争が再燃する危険性すらあるのだ。

米・イラク安保条約でも米国は妥協

 さらに米国の影響力の低下を印象付けるのがイラクとの安全保障条約をめぐる交渉である。米軍は現在国連安保理決議1543を法的な根拠としてイラクに駐留している。この決議の効力が今年の12月末に切れるため、米国政府はイラク政府との間で、これに代わる2国間の安全保障協定および地位協定の交渉を続けている。この米・イラク安保条約を締結できなければ、来年1月以降駐イラク米軍はイラクに居続ける法的根拠がなくなってしまう。
 このため米政府は今年の7月末までに安保条約の締結に漕ぎ着ける目標を立てていたが、交渉は難航し、「合意近し」の観測が幾度となく流れてはいるものの、本稿執筆時点で両政府はいまだ合意に至っていない。争点は、米軍の駐留期間やイラクに駐留する米兵の刑事免責特権、それにイラク国内における米軍の軍事作戦に対する権限やイラク国内の米軍基地の使用権など多岐にわたっている。この交渉過程を見ていくと、米国側が妥協に妥協を重ねてきていることが分かる。
 ブッシュ政権は米軍の駐留期間、すなわち「米軍がいつ撤退するか」に関しては一貫して具体的な駐留期限を設けない方針をとってきたが、イラク側が無期限の駐留を認める協定には応じない構えを貫いており、現在の交渉では2011年12月までには「すべての米軍がイラクから撤退する」事を明記する方向で議論が進んでいる。米側はそれでも条件次第で駐留延長を可能にする文言を付記しようとしているが、イラク側とりわけ議会の多数派を占めるシーア派の議員たちはそれにも断固反対の姿勢を続けている。
 米兵の刑事免責特権についても、当初米側は米軍と契約する民間軍事会社(PMC)の社員に対しても免責特権を適用させるべきと要求していたが、これはイラク側が強硬に反対して米側が妥協。現在は米兵に対する免責特権に関して激しいやり取りがなされているが、「基地外で勤務外に米兵が犯したことが疑われる大きな犯罪(major crime)についてはイラクの法律による訴追の対象とする」という妥協案を米側が提案しているのに対し、「大きな犯罪」だけでなく「あらゆる犯罪」に関してイラクの法律が適用されるべきだ、とイラク側は反撃。しかも「勤務外」と限定するのも不当だとイラク側は強気の姿勢を崩していない。
 米国防総省はこれまで外国に駐留する米兵に対する法的権限は外国に委ねないことを断固として主張してきたが、自分たちが苦労してつくった「民主国家イラク」の代表者たちにこれまでにない厳しい条件を突きつけられ妥協を強いられている。
 もちろんシーア派の政治家たちは、イランというもうひとつの後ろ盾を持っているために、米国に対して強い姿勢を維持できるのである。彼らの最近の主張はブッシュ政権の足元を見て、米国の従来の主張を逆手に取ったようなものが多い。例えばあるシーア派の議員は、「イラク政府は米軍の積荷を検査する権利を有するべきである。なぜなら米軍がわが国に大量破壊兵器を持ち込み、それを使ってわが国の近隣諸国に脅威を与える危険性があるからである」などとほとんどブッシュ政権を皮肉った要求さえ言い出す始末である(10月20日付『ニューヨーク・タイムズ』)。
 ブッシュ政権が「民主国家」として称える現在のイラクは、実際には米国をイランとの天秤にかけて、強かに米側から妥協を引き出している。一方の米側はこれ以上の駐留経費の負担に財政的に耐えられず、兵力削減を進めたいのが本音だが、イラクにおけるイランとの勢力争いに屈するわけにも行かず、何とかイラクに踏みとどまろうと妥協を強いられながらも交渉の席にしがみついているようだ。米国の威信はここまで落ちているのである。

中東新秩序からも米国は排除

 アフガニスタンでタリバンとの交渉をサウジアラビアやパキスタンが仲介しているように、イラクの周辺シリアやイスラエルでも米国を抜きに地域の関係国がどんどん独自の外交を展開している。
 9月4日にシリアのダマスカスでフランス、トルコ、シリアとカタールの首脳が集まって首脳会談が行われたのはその一例であろう。フランスは欧州連合(EU)を代表し、カタールは湾岸協力会議(GCC)を代表して参加しており、首脳会談のテーマはイスラエルとシリアの和平、イランの核問題とレバノンの内政問題であった。とりわけフランスのサルコジ大統領の参加は、シリアの外交努力に国際的なお墨付きを与えるものであり、今やシリアは、「ならず者国家」などといって国際的に孤立させる対象などではなくなっている。
 イスラエルとシリアの和平交渉は今年の5月以来、トルコの仲介により4回の非公式会議が行われており、相当の前進を見せているという。9月23日付独『シュピーゲル』誌も、「いかにしてシリアのアサド大統領は孤立から自国を抜け出すことに成功したか」というタイトルの特集記事を掲載し、「シリアは今や再び中東の将来を左右する勢力を盛り返しつつある」と述べている。
「イスラエルは、トルコが仲介して現在エルサレムとダマスカスの間で行われている交渉を決してストップさせるようなことはなかった。なぜなら驚くべき進展が見られているからである・・・(中略)・・・今や主要国の中でアサド大統領に求愛していないのはただ1国米国だけである」同誌はこのように書いていた。
 米国の意向にかかわらず、すでに地域の主要国主導の新秩序作りが始まっており、米国にはもはやこうしたダイナミズムを止める力はない。9月末に慌ててライス国務長官を含む国務省の外交チームがシリアのカウンターパートと数回にわたる会合を持ったが、これはトルコやシリアが中心になって地域レベルでつくろうとしている新しい秩序を米国が後追いするような構図になっている。もはや米国だけをウォッチしていても、新しい国際社会の流れは読みきれないことの証左と言えよう。

世界は「無極化」の様相

 最後にこの現在の状況、次期米大統領が直面することになる世界の様相を、「無極」の一語で説明した極めて興味深い論文を紹介しよう。かつてジョージ・F・ケナンがソ連共産主義の脅威の本質を明らかにし、封じ込め理論を提唱したのは米国の名門外交評論誌『フォーリン・アフェアーズ』誌上においてであったが、同誌の本年5・6月号に「無極性の時代」というタイトルの論文が掲載された。著者は元国務省政策企画室長で現在は『フォーリン・アフェアーズ』を発行する対外関係評議会の会長をつとめるリチャード・ハース氏だ。
「21世紀の国際関係の主な特徴は、無極性であることが明らかになってきた。極なき世界とは、1つや2つもしくは数カ国の国家に独占されるようなものではなく、むしろさまざまな種類のパワーを保持もしくは行使する数十もの主体に動かされる世界である」
 ハースは新しい世界の様相をこのように述べている。この極なき世界では、パワーは「集中するのではなく拡散」し、「国家の影響力が低下する一方、非国家主体のそれは増大する」とハースは指摘する。
 これまでアフガニスタンとイラクの例で見てきたように、「極」の中心にいた超大国米国の凋落が、この無極化という現象を引き起こしており、米国が過去7年間あらゆる力を注ぎ込んで戦ってきた対テロ戦争の最前線で、その無極世界の現実が如実に現れている。アフガン対テロ戦争は戦略の全面的な見直しを迫られ、タリバンとの交渉が堂々と行われる事態に陥っている。イラクも一時的な治安の改善にもかかわらず、「勝利」とは程遠い脆弱な基盤しか築けていない。しかも安保条約ではイラク側に交渉のペースを握られ、米国は妥協に次ぐ妥協を強いられている。中東で起きている新たな秩序を築こうという動きにも米国はほとんど関与できておらず何ら影響力を行使できていない。
 ブッシュ政権が過去8年間につくった外交・安全保障分野における負の遺産はかくも大きく、今後さらに増大して次期大統領の肩に重く圧し掛かることになろう。オバマになろうとマケインになろうと、次期米国大統領はこの状況から逃れることはできない。当分の間この負の遺産の清算で手一杯となろう。
 わが国は冷静にこの状況を認識し、「無極化」する世界に対する備えを一刻も早く始めるべきである。


(P196〜205)
沖縄戦「集団自決」問題 座間味村長「解散命令」を再現する
「宮平証言」を否定する面々に決定的証言を示そう
拓殖大学教授 藤岡信勝(ふじおか のぶかつ)
(略歴)
 藤岡信勝氏 昭和18(1943)年、北海道生まれ。北海道大学教育学部卒。東京大学教授などを経て現職。平成7年、自由主義史観研究会を組織し、「新しい歴史教科書をつくる会」会長。著書に「汚辱の近現代史」「近現代史の授業改革」など。


「宮平証言」の衝撃

 沖縄集団自決冤罪訴訟(大江・岩波裁判)は、3月28日の大阪地裁における被告・大江側の勝訴判決に対し原告(元日本軍隊長側)が控訴して大阪高裁で控訴審が開かれていたが、去る9月9日の第2回口頭弁論で結審し、判決は10月31日午後2時、大阪高裁で言い渡されることとなった。本誌発売時点ではすでに結果は判明していることになる。
 控訴審では2つの争点が存在した。1つは、名誉毀損の成立要件に関する法理論上の争点で、「真実相当性」の解釈をめぐる問題である。原告の元隊長側は、最高裁判例の分析をもとに一審判決の誤りを突いた。もう1つは、集団自決が隊長命令で起こったとする「隊長命令説」の真偽に関わる事実関係をめぐる争点である。私見によれば、どちらの争点についても、原告が被告を圧倒した。裁判所が公正な判断を下すなら、元隊長側が逆転勝訴するのが当然である。
 本稿では、事実関係について、大江・岩波側の論理の破綻が白日のもとに曝け出されたことを明らかにする。
 事実関係について裁判で争われた最終的な争点は、住民に対し「集団自決せよ」という日本軍の隊長の命令があったかなかったかである。大江・岩波側も隊長命令説を本気で信じているはずはないが、裁判に勝つためには隊長命令があったと主張しなければならない立場にある。なぜならば、大江健三郎の『沖縄ノート』についてはまだ言い逃れる余地があるかもしれないが、家永三郎の『太平洋戦争』には、のっぴきならない形で、「座間味島の梅沢隊長は、老人・こどもは村の忠魂碑前で自決せよと命令し」たと、はっきり書いてあるからである。
 昨年の12月21日、大阪地裁で一審が結審したあと、今年の1月に、座間味島で宮平秀幸の新証言が明るみに出た。当時15歳の宮平は、日本軍の伝令役をつとめていたが、昭和20年3月25日の夜、梅澤隊長のいる戦隊本部の壕に、集団自決用の武器弾薬を求めて村の幹部がやってきたとき、隊長からわずか2メートルのそばで村の幹部と梅澤隊長のやりとりを聞いていたのである。衝撃の新証言であった。
 この場面については、従来、隊長を訪ねた村の幹部のうちの唯一の生き残りである宮城初枝の手記によって、隊長は「今晩は一応お帰りください。お帰りください」とだけ言ったことになっていた。しかし、「宮平証言」によれば、梅澤隊長は武器弾薬を渡さなかっただけでなく、逆に、村民に「自決するな」と「命令」し、しかもそれを受けて村長が集団自決のために忠魂碑前に集まった村民を解散させていたのである。

控訴審における攻防

 控訴した元隊長側は、控訴理由書の1項目に宮平証言を織り込んだ。この証言が正しいとすれば、隊長命令はなかったことが、疑問の余地なく、完全に証明される。そこで、これに対抗する大江・岩波側は、必死で、宮平証言には信憑性がないこと、平たく言えば嘘であることを主張しなければならない立場に追い込まれた。こうして、宮平証言の信憑性を認めるかどうかが、控訴審の大きな争点となったのである。
 7月末、大江・岩波側は、宮平証言の信憑性を否定する3つの材料を持ち込んできた。
 第1は、『座間味村史・下巻』に掲載された秀幸の母・貞子の証言である。ここで貞子は、秀幸を含む家族が忠魂碑前には行かなかったと述べていたのである。そうすると、家族とともに忠魂碑前に行き、村長の「解散命令」を聞いたという秀幸の証言は虚偽を述べていることになる。
 第2は、本田靖春のルポ「座間味島1945」(『小説新潮』1987年12月号)で、この中では、秀幸は家族とともに自家の壕に潜んでいたように書かれており、従って本部壕にはいなかったことになる。
 第3は、宮平自身が出演した約60分のビデオ作品で、記録社制作の『戦争を教えて下さい・沖縄編』(1992年)に含まれているものである。この中で宮平は、本部壕に行ったことも、忠魂碑前で村長の解散命令があったことも語っていない。
 さらに、大江・岩波側は、秀幸の姪にあたる宮城晴美(初枝の娘)の陳述書を提出し、叔父・秀幸に対し、信用できない人物であるとする人格攻撃を行った。
 これに対し私は、元隊長側の弁護団から要請され、7月末と8月末の2度にわたり大江・岩波側の議論に反論する長文の意見書を書いて提出し完璧に反論した。また、関係者の聞き取り調査を行い、宮平の2通の陳述書を初め、いくつかの文書をまとめた。
 攻防の一例をあげる。晴美は陳述書の中で宮平秀幸が軍の伝令ではなかったと主張し、その根拠として、当時17歳の中学生で、村役場と軍との間の伝令役をしていた中村尚弘(旧姓名・小峯茂)が、「秀幸は伝令ではなかった」と明言していると述べた。
 事情を調べて見ると、6月にある人の告別式で尚弘が晴美に久しぶりに会った際、20秒くらい立ち話をしたが、晴美が「秀幸叔父さんも尚弘さんと一緒に伝令をしていましたか」と尋ねたので、「いいえ一緒ではなかったよ」と答えたとのことであった。
 つまり、晴美は、秀幸が尚弘と同じチームに属していたのではないという趣旨の尚弘の答えをねじ曲げて、秀幸がそもそも軍の伝令ではなかったという証言に仕立て上げていたのである。そこで、秀幸は陳述書を書き、軍から半月単位で手当までもらっていたことを明かすとともに、中村尚弘の陳述書、梅澤隊長が以前に書いていた、秀幸が伝令に従事していた最中に負傷したことを示す現認証明書などを裁判所に提出した。晴美の嘘は完全に粉砕された。
 大江・岩波側との論争で焦点となったのは、忠魂碑前での村長の「解散命令」の有無である。私は意見書の中で、大江・岩波側が持ち出して来たさきの3つの資料がいずれも忠魂碑前での村長の解散命令に言及していないのは、集団自決は日本軍の隊長の命令によるものだったという虚構のもとで援護法の適用を受けていた村の同調圧力のためであり、実際にも宮平は当時の村長から、集団自決について本当のことを語ってはいけないと厳しく言われていたことを明らかにし、大江側提出の資料の存在は、真実を話そうと決心した宮平の今年1月以降の証言の信憑性を損なうものではないことを完膚なきまでに論証した。

村長の「解散命令」を再現する

 では、野村正次郎村長の「解散命令」はどのようになされたのだろうか。長文の宮平陳述書(9月1日付け)から、村長の「解散命令」を描写的に述べた部分を引用する。
 
≪村の幹部たちが忠魂碑の前にやって来た時、集まっていた住民は一時総立ちとなりました。村の三役らが自決用の弾薬を持って帰って来たと思ったのです。幹部は忠魂碑の右下に固まって、しばらくの間、何事かを相談していました。私の耳に、「村長、もう、あともどりはできませんよ」という声がしたのだけが、はっきり記憶に残っています。声の主は盛秀助役だったのか、収入役だったのか定かではありません。
 そのうち、村長が、「今から大事な話をするから、みんなこっちに寄って来なさい」と人々を忠魂碑のすぐそばまで呼び集めました。私と家族は、忠魂碑から5メートルほどのところにあるタブの木の生えた井戸のところまで近づいていきました。もっと近くに寄ろうとしたのですが、掲示板に遮られ、その周囲にはすでに他の家族が座っていたので、それ以上近寄ることはできませんでした。村長の声は小さかったが、それでも話ははっきり聞き取ることができました。
 村長ひとりが忠魂碑の階段を上り切った1つ下の段に立って、「これから軍からの命令を伝える」と話を始めました。集まった人々は、いよいよ自決命令だと思って緊張しました。ところが、村長の話は次のようなものだったのです。
「みなさん、ここで自決するために集まってもらったんだが、隊長にお願いして爆薬をもらおうとしたけれど、いくらお願いしても爆薬も毒薬も手榴弾ももらえない。しかも死んではいけないと強く命令されている。とにかく解散させて、各壕や山の方に避難しなさい、1人でも生き延びなさいという命令だから、ただ今より解散する」。
 村長の話は2〜3分で終わりました。村長が解散命令を出したのは午後11時ころです。私は時計を持ってはいませんでしたが、見上げたら上弦の月が真上にかかっていたので、その高さから大体の時刻を判断できました。もちろん、厳密、正確というわけではありません。このあと、助役や収入役は、忠魂碑のすぐ下のところで、集まった人々と何ごとかをしばらく話していました。そのうち、「産業組合の壕から来た人は戻って下さい」という声が聞こえました。2人の役場職員が、鉄砲をかついで産業組合の方角に去って行くのを、私は目撃しました≫
 
 大江・岩波側はこの宮平証言がすべてつくり話であり、宮平の創作であると主張しなければならない立場にあるわけだが、控訴理由書の言い回しを借りれば、この宮平証言は、「迫真性、具体性、明確性」に富んでおり、全てが一貫し整合している。どんなストーリーテラーの才能をもってしても、事実無根の話をこれほど詳細に創作するのは不可能だ。

証明された村長の「解散命令」

 村長の「解散命令」の存在については、宮平以外の証言者を見つけ出して、積極的に証明することによって宮平証言の正しさを確定することができる。私は1月に宮平に出会ってから、忠魂碑前の村長命令を裏付ける他の証言者は必ずいるはずだし、見つかるはずだと見当をつけた。私は1月のあと、2月、3月、8月、10月の4回にわたって現地調査を行い、30人近い人々の話を聞いた。その結果、現在までに三人の人物の確かな証言を得ることができた。
 第1は、当時15歳の宮里米子の証言である。米子は家族6人で忠魂碑前に向かったが、近くまでくると、引き返してくる老人に出会った。米子は次のように証言している。
≪知念のおじいちゃんが、「もう解散だから帰ろう」と言って、女の子の孫を連れて泣きながら(帰ってきた)≫
「解散」ということばは、@集団の中に統率者がいて、A全員に向かって、Bその場を立ち去る行動を指示する、という行動を示すものだ。だから、知念らは各自の判断で勝手に忠魂碑前から帰ってきたのではなく、「解散」を命じた指導者がいたのである。この米子証言については、本誌4月号の拙論「集団自決『解散命令』の深層」で報告済みであり、裁判所にも拙論を書証として提出してある。
 第2に、宮平秀幸の妹で当時満5歳10カ月の昌子の証言である。8月14日付けで裁判所に提出した宮平昌子の陳述書は、忠魂碑前での出来事を次のように述べている。
≪私たちはマカーの広場[忠魂碑のある地名]のそばの小さなみぞに座っていました。秀幸兄さんが来ました。「千代姉さん」と呼んでいました。兄さんはおじいさんとお母さんに話をしていました。★少したってから、大人の人たちが集まるように大声でみんなを呼びました。大人が「解散、解散」と言っておりました★(★内に傍線付く)≫
 右の傍線部分が村長の「解散命令」に対応することは明らかである。ここでも、キーワードの「解散」が登場する。なお、昌子陳述書は、忠魂碑前には行かなかったとする母・貞子の村史の証言を覆す決定打でもあった。娘の昌子には、わざわざ嘘をついてまで母の証言を否定する動機などあり得ないことはいうまでもない。(『WiLL』11月号参照)
 しかし、この2つの証言には、「村長」という言葉が登場しない。誰か指導者が「解散」と命じたことは確かであっても、それが村長だったとは限らないとする議論の余地があることになる。
 しかし、その空隙を埋める第三の証人を、控訴審が結審したあとではあるが、10月になって見つけることができた。当時14歳の宮平★精善★(★内にルビ付く せいぜん)(秀幸と同姓だが、直接の親戚関係はない)は、自宅に家族とともにいたところ、「村長命令で忠魂碑前に集まれ」という話が人伝えに伝わって来た。村長命令は軍命令に基づくものだという。そこで母と2人の弟の、家族4人で忠魂碑前に向かった。ところが、学校の裏手まで来たところで、引き返して来る人に出会った。その人は、「★村長命令で★(★内に傍線付く)、この状態では(集団自決は)ダメだから解散するということになった。各自の壕に帰るようにとのことだ」と伝えた。そのあと、照明弾が落ち、直後に艦砲が激しく撃ち込まれた。精善は、まさに村長命令の直後に忠魂碑の近くまで来て、その情報を耳にしたことになる。
 これで、忠魂碑前における村長の「解散命令」は見事に証明された。宮平証言は完全に裏づけられたのである。

村の幹部が集団自決を決断

 忠魂碑前での村長の「解散命令」の有無は、集団自決の全体像について決定的な違いをもたらす。村長の「解散命令」を否定しなければならない大江・岩波側は出来事の順序について支離滅裂なストーリーを描くことになる。
 まず、村長、助役、収入役の村の三役と国民学校の校長などからなる村の幹部は、いつごろ忠魂碑前での集団自決の決行について意思決定をしたのだろうか。これについて、宮平陳述書は驚くべき事実を暴露している。
 3月26日早朝、第二中隊の壕から出てきて、高又川のそばを秀幸の家族が歩いていると、向こうから国民学校教頭の山城安次郎がやってきた。軍服姿に身を固めている。その時の、宮平一家と山城との会話を、宮平陳述書は次のように再現している。
 
≪先生は私たちに向かって、いきなり、「民間人は皆死ねと言っているのに、何でうろちょろしているんだ。死にきれないのか。死ぬ道具がないなら、今、私が叩ききってやるからそこに並べ」と叫んで腰の日本刀を抜きました。
 のど元に刀の先を突きつけられた祖父が、「殺すのを待ってくれ」と言うと、「玉砕命令を出しているのに、何で死なないのだ」と先生は言います。祖父は、「山城先生。夕べ、忠魂碑の前で、『部落民は死んではいけない、集まった人を解散させて、山なり、谷なり、防空壕なりに避難させなさい、ということだったので解散する』と村長が言ったのに、今頃になって先生が私たちを殺そうとするのは、どういうわけですか。部隊長も本部壕で村の三役に、自決させてはいけないと言っているのに、今になって殺すとは、誰の命令ですか」と口答えしました。母も祖父に口添えしました。
 山城教頭は、「玉砕命令は、梅澤隊長の命令ではない。昨日(3月25日)の昼過ぎ、村長、三役で決め、郷土防衛隊長(宮里盛秀)の命令として出させたものだ。各自、個人個人の壕を回って、軍の命令だと言って忠魂碑の前の広場に集合させなさいと伝達させたのだ」と答えました≫
 
 村の幹部は25日の昼過ぎ、集団自決の意思決定をしていた。「昼過ぎ」という時点には意味がある。座間味島への空襲は3月23日から始まっていたが、艦砲射撃は25日の正午頃から始まったからである。艦砲射撃の衝撃と恐怖は並大抵のものではなかったし、これでいよいよ明日は米軍が上陸するだろうと三役は確信した。
 その日の夜に忠魂碑前で集団自決を決行することを決めた村の幹部は、村長命令で、村役場の本部をかねていた産業組合の壕に備蓄してあった米を住民に放出することを決めた。米を取りに来るようにという伝令が派遣され、村長命令として伝えられた。
 次に、役場職員の宮平恵達とつるが、忠魂碑前に集合するよう伝えて回った。回るべき戸数は50から60だ。早くから始めなければ回りきれない。恵達は日没のころから各家の壕を回って歩いている。私は座間味島で「夕暮れ時に」伝令の恵達が来たという証言を住民から得ている。秀幸の家の壕に恵達が来たのは午後8時ころだった。
 ただ、村の幹部の計画はかなりずさんだったように思える。集合時刻を指定していないからである。そこで、早く連絡を受け、早く忠魂碑前に来た家族は、そこに誰もいないのを見て帰ってしまった。

村の幹部を冒涜する筋書き

 さて、集団自決のために住民に招集をかけた村の幹部たちは、自らも家族とともに最後の夕食を摂った。集団自決を推進した村の幹部の中の中心人物である助役(兼兵事係、兼防衛隊長)の宮里盛秀は、父・盛永と水杯を交わした。その場面を、盛秀の妹・春子の証言をもとに描写した、宮城晴美の著書『母の遺したもの』の初版(2000年発行)から引用する。
 
≪あわただしい食事を終えると、子どもたちから先に晴れ着を着せ、全員身じたくを整えた。出発の前、7歳、6歳、3歳の3人の子どもの前にひざまずいた盛秀は、3人をひとまとめに抱き抱え、「これからお父さんと一緒に死のうね。みんな一緒だから怖くないよ」と、頬ずりしながら、しばらく子どもたちを強く抱きしめた。
 涙声はまもなく嗚咽にかわった。それから杯に水を入れて父親の盛永の前に進み、「お父さん、この世では十分親孝行できませんでしたが、あの世ではきっと孝行します」と水杯を交わした。
 親、きょうだいとも涙、涙で、あの世での再会を約束した≫(217ページ)
 
 この記述を読めば、盛秀がこの時点で、忠魂碑前での集団自決が自分たちの計画どおり首尾よく実行できると信じて疑わなかったことが明らかである。だからこそ、「みんな一緒だから怖くないよ」と子どもに言うことができたのである。
 別れの水杯のあとの盛秀一家の行動を、再び晴美前掲書から引用する。
 
≪一家は盛秀を先頭に、忠魂碑に向けて出発した。燃えあがる炎と飛んでくる砲弾におびえながら歩いていると、突然数メートル先に照明弾が落下し、あたりが昼のようにパーッと明るくなった。これ以上進むと危険である。しかたなく、来た道を引き返すことにした。ちょうどその時、村長と収入役がそれぞれ家族を連れ、盛秀一家の方に向かってくるところだった。ここで全員忠魂碑に行くことをやめ、農業組合[産業組合に同じ]の壕に向かって歩きだした。村長、収入役とその家族が先ほどまで避難していた壕である≫(218ページ)
 
 これも春子証言がもとになっている。大江・岩波側はこの春子証言を根拠に、村長も助役も収入役も、要するに村の三役が誰も忠魂碑前に行かなかったという筋書きを主張している。しかし、この筋書きこそ社会常識から考えて到底受け入れることのできない荒唐無稽なつくり話であり、かえって村の幹部を冒涜するものであると言わざるを得ない。
 考えてもみよう。村の三役は、伝令を派遣して忠魂碑前に村人を集合させた張本人である。照明弾が落ちたことは忠魂碑前に行くのを取りやめる理由にはならない。現実に、多くの村人は、その弾雨の中をくぐり抜けて忠魂碑前に集合しているからだ。村人でもそのような決死の覚悟で集合したことを考えれば、「玉砕」を決行しようと考えている村幹部が、自分で村人を集合させておきながら、自らは何の指示も与えずに現地に行くことをやめ、自分たちだけで勝手に別の場所に避難するなどという無責任な行動をとることはあり得ない。まして、盛秀は人一倍責任感の強い、意志強固な人物だった。どんな危険を冒しても、それこそ死んでも忠魂碑前に行き、自らの責任を果たそうとしたはずだ。
 実際はどうだったか。宮平秀幸は、忠魂碑前に村の三役も、その家族も来ていたことを目撃している。三役が忠魂碑前に来たということ、それこそが人間の行動の原則や倫理にかなった信じるに足る事実である。

集団自決の全体像

 ただ、私は春子がここで嘘をついているとは必ずしも考えていない。盛秀一家が忠魂碑を目指したこと、照明弾が落ち、引き返したこと、村長と収入役及びその家族に遭遇したこと、全員で産業組合の壕に引き返したこと、の大筋は、春子の証言どおり事実であったと思う。
 ただ、おそらく事実と異なるのは、産業組合の壕に引き返したのが、文字通りの「全員」ではなく、村長ら三役は、他の家族と別れ、そこから忠魂碑前に向かったと考えられることである。
 その裏付けとなる証言がある。盛秀の妹で当時13歳の宮村トキ子は、一家が「壕を出たあと、家族は集合場所(忠魂碑)へと向かったが、兄は兵事主任と村の助役の任務を果たすために、離れ離れの行動をとったと思う」(『挑まれる沖縄戦』2008年1月、沖縄タイムス社刊、374−5ページ)と語っている。
 盛秀一家は19人で、それに親戚の者を含めて30人ほどの人々が弾雨の中を移動した。春子が盛秀の行動に気がつかなくても仕方がない。盛秀たち村の三役は、忠魂碑前に村人が集まっているのを確認してから、集団自決用の武器弾薬をもらうために、本部壕に梅澤隊長に会いにいったのである。
 春子証言の真実と思われる部分と、宮平証言とを結びつけると、村の三役が、当時役場の拠点となっていた産業組合壕、忠魂碑前、戦隊本部壕の三つの地点をどの順序で移動したかが浮かび上がってくる。一連の行動の正しい時系列は次の通りであったと考えられる。これを集団自決の全体像に関する今後の探求のための作業仮説としたい。
 
 @三役らは、25日昼過ぎに、当日夜、集団自決を決行することを決意し、日没ころから伝令を派遣して忠魂碑前に住民を集める手配をした。
 A三役らは、それぞれ自家の壕で最後の食事をすませ、家族を率いて忠魂碑前に向かった。村長と収入役の家族は一旦産業組合の壕に待機してから出かけた。大体の集合時刻は打ち合わせていたと思われる。
 B途中、盛秀の家族の手前で照明弾が落ち、一旦引き返そうとしたところで村長と収入役の家族に出会った。家族は産業組合の壕に一旦待機させ、三役は忠魂碑前に向かった。
 C忠魂碑前で、盛秀助役は秀幸の家族など村人が来ているのを確認した。村長は集まった村人に、軍から爆薬をもらう手はずになっていることを説明し、しばらくその場にとどまった。
 D助役と収入役、あとで合流した校長と、初枝、恵達は本部壕に梅澤隊長を訪ねた。村幹部の予想に反して梅澤隊長は頑として武器弾薬の提供を拒否し、集まった村人は解散させよと「命令」した。盛秀らは30分以上も粘ったが結局目的を果たせないままあきらめて帰らざるを得なかった。
 E村長はなかなか予定通り助役らが来ないことにしびれを切らして、本部壕前にやって来た。本部壕前から三役らは連れだって忠魂碑前に向かった。
 F村長が、忠魂碑前で集団自決の手段を得ることが出来なかった事情を説明し、「解散命令」を出した。
 G産業組合の壕から来た役場の職員の家族らは、そこへ引き返した。その壕で米軍上陸直前に67人の集団自決が起こった。また、各家の壕でも同様の自決があった。

被告側ストーリーの破綻

 被告側準備書面(5)は、宮里盛秀助役を中心とする村の三役の動きを次のようなストーリーにまとめている。
≪宮里盛秀助役は、本部壕を出てから、宮里家の壕に行き、家族とともに忠魂碑に向かったが、途中で引き返し、産業組合の壕に行ったのであり、本部壕から助役らの後について忠魂碑前に行ったとの秀幸証言が虚偽であることも明らかである≫
 ここに凝縮して述べられていることを、行動の内容を付け加えて時系列にまとめると次のようになる。
 盛秀助役は、@本部壕で梅澤に武器弾薬の提供を断られてから、A自家の壕で別れの水杯をし、B家族を率いて忠魂碑前に向かい、C途中で照明弾が落ちたので産業組合の壕に引き返し、Dそこで集団自決を決行した。
 これは人間の行動として支離滅裂である。
 第1に、@→Aの順序は不自然である。もし梅澤が自決用の武器弾薬を三役の希望通り提供していたら、そのまま集団自決は決行していただろう。そうすると、家族の最後の晩餐の機会がなくなる。ここは当然、人間の行動としてはA→@の順序でなければならない。
 第2に、@→A→Bの流れはもっと不自然である。隊長に断られて、すでに忠魂碑前での集団自決計画は挫折しているのである。何のために家族を率いて忠魂碑前に行く必要があるだろうか。
 第3に、Cの行動はさらに不自然である。さきに詳述したとおり、村の幹部が忠魂碑前に集まっている住民に何の事情説明もしないまま、勝手に自分たちだけで産業組合の壕に避難してしまうことはあり得ない。
 なぜ、こういう矛盾が生じたかと言えば、大江・岩波側が、忠魂碑前に三役が行ったことや、村長が「解散命令」を出したことをあくまで否定しなければならない立場に置かれているからである。
 さて、控訴審の裁判官は、「真実相当性」をめぐる法理論論争と隊長命令の有無に関する事実関係の論争にどのような判定をくだすのだろうか。


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