月刊正論:8月号から  
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産経新聞社「月刊正論」からEISへの提供コラムです。
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   戦後60余年…

   なぜわれわれは「特攻」を描き、伝えたいと思うのか
 今も日本を守る若者たちの至純を忘れまい
「靖国で会おう」といって散華したかれらとの゛黙契″を後生は裏切ってはならない
(P263〜273) 
 
映画監督●新城 卓しんじょう・たく
演出家・劇団夜想会代表●野伏 翔(のぶし・しょう)


 

《かつての大戦で「靖国で会おう」と約束して、この国を守るために大空に散華した若者たちと、彼らを真心込めて世話し、見送った゛特攻の母″鳥浜トメさんの思いを描いた「俺は、君のためにこそ死ににいく」(原作/石原慎太郎、脚本・演出/野伏翔)が、雑誌「正論」創刊35周年記念企画として8月1日から5日まで、東京・九段の靖国神社境内で上演される。戦後から60余年…、永遠に還らぬ彼らが今生きていれば、いったい同胞に何を語りかけてくるだろう》
 
 ――「俺は、君のためにこそ死ににいく」は、石原慎太郎さんの脚本・製作総指揮の映画として、昨年、全国で公開されました。石原さんとともに長年企画の実現に尽力され、監督をつとめられたのが新城卓さんです。今回その舞台化に挑む野伏さんも、これまで榎本滋民さん原作の「同期の桜」(昭和42年新国劇で初演)を靖国神社の境内で再演するなど、「特攻」への思いが強い。映像と舞台という違いはありますが、特攻隊員の青春群像を描かれたお2人に、日本人にとって「特攻」とは何だったのか。戦後に生きるわれわれは、あの悲劇から一体何を汲み取らなければならないか――などを語り合っていただければと思います。

 新城 私は、昭和19年2月に沖縄で生まれました。日本が゛あの戦争″を敗戦へと転げ落ち始めたとき、やがて陸上戦闘における最大の激戦地となる沖縄で産声を上げたというのは、自分にとって切っても切れない「日本」との宿縁のようなものを感じています。沖縄はあの戦争の被害者だった、本土の犠牲にされたという声ばかりがクローズアップされますが、果たしてそんな一方的な゛物語″でいいのか。むしろ沖縄県民は、日本国民として最後まで立派に戦い抜いた。私は、その誇りこそしっかり持ちたいと思っている1人です。

 沖縄はご存知のように、戦後米軍の軍政下に置かれ、昭和26年に軍政から民政に移りましたが、在沖縄米軍司令官が兼ねる高等弁務官が事実上の゛支配者″で、アメリカの属領状態であることに変わりはなかった。沖縄が晴れて「日本」に復帰したのは昭和47年、実に27年間もアメリカに占領されていたわけです。私は、少年時代に沖縄の地に翻る日の丸を見たことがなかった。君が代を聞いたこともなかった。しかし、日本は紛れもなく自分の祖国なのだと強く思う少年でもあった。この現実の沖縄と自分の思いとの間の捩れから、私の人生はスタートしたと思っています。特攻というものを考えるようになったのも、それが沖縄戦と不可分のものだったからです。野伏さんが特攻に関心を持たれたきっかけは何ですか。

 野伏 特攻戦死者数の合計は資料によって諸説あるのですが、おおよそ海軍が2,500人、陸軍が1,300人、それに舟艇などによる特攻参加の3,000人を併せて7,000名近くの若者が特攻隊員として散華しています。事実はもっと多いでしょう。なぜ彼らは゛必ず死ぬ″と分かっている特攻に殉じたのか。最初はそれが自分にとっての大きな関心、謎でした。
 実は、私の両親はシナ大陸からの引揚者なんです。祖父は職業軍人として京城帝国大学の配属将校をつとめていました。父も朝鮮総督府で働いていたことから、戦後もずいぶん経ってからですが、韓国の人がよくわが家を訪ねてきました。付き合いがあったんですね。総督府には父の上司として朝鮮の人が多かったし、警察官のおおよそ3分の2は朝鮮の人だったそうです。だから間違っても朝鮮の娘さんを日本軍の慰安婦として日本の官憲がさらっていくなんてことはなかった。「従軍慰安婦強制連行」などという話は、ばかばかしくて取り合う気にもならないと父は話していました。

 つまり、東亜の無辜(むこ)の民に悪逆非道な侵略を仕掛けた血も涙もない日本人などという、いわゆる東京裁判史観がつくったイメージからかけ離れた話を祖父や父から聞かされていた私には、特攻というものも、無理やり強制されて死ににいかされたという犠牲者的な話だけが大きく取り上げられるのは、どこかおかしいのではないか、という感覚があったのです。

 それでいろいろ取材をし、特攻隊員の遺書や日記、手紙といった類の数多(あまた)の資料を読み込んでみて分かってきたのは、彼らは敵に対する憎悪から特攻に至ったのではないし、自由意志を許さぬ軍隊のなかで奴隷のように命じられて行ったのでもない。生死の境で懊悩しながらも、多くが国を守るため、親や兄弟、妻や恋人を思って行ったのだという深い゛共感″でした。こんなことを言うと、すぐに特攻を美化していると、反戦平和・人権派の人たちからは非難されるのでしょうが(苦笑)、今日の人権観であの時代を一方的に裁くのは正しくないと思います。

 新城 私も「俺は、君のために〜」をつくったことで、戦争や特攻を賛美していると言われましたが、あのとき命を投げ出して戦った若者の姿を素直に描くことがなぜ戦争賛美なのか。それは批判する側が゛1つの真実″しか認められないと考えているからです。すなわち特攻隊員はすべて強制によるもので、そこには国家による非人道的な犠牲という面だけが描かれればよいという一種のイデオロギーみたいなものです。しかし、真実はそんなに単純なものではない。多様な真実があって、そのなかから何を汲み取るかによって見えるものが異なってくるのは当たり前のことです。それを彼らは「美化」といって非難する。では彼らの国を想う気持ち、親や兄弟、妻や恋人のために命を投げ出した行為は、戦争を美化し、助長するけしからんことでしかないのか。「反戦平和」「人命尊重」というパッケージだけでしか特攻や戦争のことを語れないとしたら、それこそ最も肝心な人間の姿が見えなくなってしまうと思います。

 野伏 同感です。狂気の沙汰、世紀の愚行などといって片付けてしまってはいけない。特攻隊員の遺書や手紙、日記に、日本という国に対する恨みつらみはほとんど見られません。無念や残念な思いは綴られていても、国への憎悪はない。では何があったのかというと、身近な者に対する愛ですね。愛に満ち満ちている。正直、これはすごいことだと思いました。

 彼らは父母のため、家族のため、故郷のためと綴っていますが、自らが犠牲となることの動機としては愛が第一です。その運命から逃げたら縁者が恥をかくという、いかにも日本的村社会の空気が圧力になったという論者もいますが、だとしてもそれだけではない、能動的な愛、意志を彼らは持っていたと思います。

特攻の戦果とは何であったか

 新城 特攻隊員が選ばれるに当たって「志願という名の強制」という台詞は映画のなかにも出てくるのですが、実際には、゛志願でもあり強制でもある、強制でもあり志願でもある″ということだったのではないでしょうか。これは矛盾しているけれども、当時の日本の置かれた状況からも、特攻隊員たちは苦悩、葛藤の末に、ある種の宿命のなかに自らを置くことを最終的に了としたのだと思います。国が存亡の危機にある以上、強制を拒む理由はないという究極の選択です。

 野伏 作戦として航空特攻が正式に採用されるのは昭和19年10月からですね。新城さんがおっしゃるように、特攻隊には、志願者が不足して上官が指名せざるを得ない状況に追い込まれて半ば強制的に志願させられた隊員もいれば、隊員の多くが「熱望」し、志願者が編成数を超えて人選に苦慮した部隊もあったようです。本当に複雑多様だった。

 しかし、特攻の正式採用以前にも、負傷や機体の損傷、生還が帰しがたい絶望的な状況では自爆したり敵に突入したりという行為はありました。「生きて虜囚の辱めを受けず」という『戦陣訓』の人命軽視を強調する人が多いのですが、こうしたことはアメリカにも他国の兵士にもあった。その最後のときに彼らの脳裏をよぎったものが何だったかを思うと、実は日本兵だろうとアメリカ兵だろうと同じだったのではないか。父母、兄弟、妻、恋人、友、故郷の風景…。

 私は戦争も、特攻も大変な悲劇だったと思います。しかし、だからといって、特攻は「犬死」だったとか、軍国主義という時代の犠牲者だったという歴史観だけが大手をふって、特攻隊員の死を矮小化してはならない。「犬死」という1つの物語だけで括って後世に伝えていい話ではないと思うのです。

 新城 特攻の戦果を数字だけで見れば、あれほど多くの若者の命を投じながら、「これだけか」という悲しい思いを禁じえないのはたしかです。たとえば特攻機が撃沈したとされる米軍の護衛空母は3隻(セント・ロー、オマニー・ベイ、ビスマルク・シー)ありますが、正規空母は1隻もありませんね。昭和20年2月に海軍の第2御楯隊が硫黄島沖でサラトガを大破させたほか、沖縄戦渦中の5月にはバンカーヒル、エンタープライズの2隻が特攻機の突入によって帰投を余儀なくされ、この3隻の正規空母を終戦まで使用不能にすることには成功したけれど、とても戦局を旋回させ得るような戦果ではなかった。日米の資料によって諸説あるので細かい数字は挙げませんが、最近の調査では空母や戦艦、巡洋艦など米艦船全体数に対する特攻機の戦果(撃沈、大破、中破など損害を与えた確率)は2割弱という見方が多いようです。

 野伏 米戦略爆撃調査団の戦後調査「太平洋戦争綜合報告書」によれば、アメリカ側にとって「体当たり攻撃による航空特攻からの損害は重大であり(中略)、2,000機に及ぶB−29の出撃が、日本の都市及び工業地帯への直接攻撃に代わって、九州地区の特攻基地に振り向けられたほどである。もし日本軍がさらに大兵力で集中的な攻撃を続けていたら、米軍部隊を後退させるか、米軍側の戦略計画に変更を余儀なくさせたかもしれなかった」とあるそうです。

 新城 特攻自体が近代合理を超えた戦法です。やっぱり後生のわれわれとしては、数字で計りきれない意味を汲み取る必要がある。覚悟を決めた生身の人間が、250キロの爆弾を抱えた戦闘機で体当たりしてくる攻撃は、まさに米軍将兵にとって想定外のことで、彼らに与えた恐怖感は尋常ではなかったと思います。彼らにはいまだにそのときの恐怖の記憶が強く焼きついているのでしょう。2001年9月に起きた米同時多発テロのとき、アメリカの議会関係者だったか、「カミカゼ」を連想した発言が出ましたね。

 しかし、彼らのテロとわが国の特攻隊員の行為は大きく異なります。日本軍の特攻はアメリカと日本という国家同士の戦争において発動された作戦で、目標も軍艦に限定されたものです。明らかに兵対兵の戦いです。これを、一般市民を巻き添えにしたテロと同一視されたのではかなわない。日本の識者にもアメリカ人と同様の発言をした人がいましたが、彼我の違いをまるで分かっていない。この点を、ちょうどアメリカに滞在中だった石原さんがすぐに正す発言をしてくれたのは本当に嬉しかった。カミカゼは、「いざとなったら」という意味で、今も日本にとって゛無言の楯″となっていると私は思います。

 連合国の一員として日本と戦ったオーストラリアのキャンベラにある国立博物館の戦争資料館を訪れたことがあります。その施設に「カミカゼ」のドキュメンタリーフィルムが流れているコーナーがあるのですが、そのタイトルはなんと「ゾンビ(zombie)」です。撃ち落しても、撃ち落してもやってくる恐怖を表しているのでしょうが、何ていうのかな…、彼らはそうとしか思っていないのかという、特攻隊員を人間扱いしていないことに対する悔しさを抑えることができなかった。

 野伏 日本国内では「犬死」、旧敵国では「ゾンビ」…やり切れないものがありますね。しかし、少なくとも同胞である私たちにとっては、特攻隊の彼らが後生に託した想いをどう受け止めるかにかかっている。「靖国でまた会おう」「後を頼む」と言って後生を信じ散華していった彼らの至純に、今生きている私たちは答えなければならないと思います。

 新城 結果的に戦争に敗れたこと、特攻による現実の数字上の戦果がわずかであったことなどから、彼らを「犬死」と決めつけるのは間違っています。そもそも特攻が「統率の外道」であることは当時の戦争指導者にも分かっていたことです。私たちは、なぜ日本がそんな無謀な作戦に突入していかなければならなかったのかをまず知っておかねばならない。゛特攻作戦の生みの親″と言われる大西瀧治郎海軍中将が、生還の見込みのまったくない特攻を「統率の外道」と認識しながら、それでも決断したのは、昭和19年10月の台湾沖航空戦の敗北の結果、彼が指揮する第一航空艦隊の稼動可能な零戦が激減し、捷号作戦でレイテ湾突入をめざす連合艦隊のための制空権確保、上空護衛ができなくなったため、残存機をもって米空母部隊の飛行甲板を一時的にでも使用不能にさせることで、彼らの空襲を阻止するとともに連合艦隊の突入を支援する必要があったからです。もちろん、現地司令官の大西中将の独断というわけではない。もともと軍令部が想定していた作戦をとうとう実施したというのが実情でしょう。その最初の特攻に任ぜられたのが関行夫大尉ですが、関大尉は、志願ではなく上官の指名による事実上の強制でした。

 野伏 関大尉は、特攻隊に指名されたその場で数秒考えたのち承諾したという話と、「一晩考えさせてくれ」と即答を避け、「俺のようなパイロットをこんなふうに殺すようでは日本もおしまいだ」とこぼしながらも、出撃を受け入れたという話があり、これも細部は食い違って今に伝えられています。新城さんは、あのときの関大尉を、「私が…」と絶句したあと、頭をかきむしり、しばし沈黙が流れたあと上官を睨みつけるような眼差しで、「分かりました。やります。…やります」と描かれた。限られたカットのなかで人間の究極の苦悩を描くことの、関大尉の胸奥にあるものを汲み取ろうとする新城さんご自身の演出の苦悩が伝わってくるようでしたが、後に続いた隊員たちも同じような苦悩に苛まれながら、どこかで折り合いをつけて行ったのだろうという気がします。

゛あの戦争″の大義を信じて

 新城 特攻隊員にインテリが多かったのは事実です。彼らが特攻に行った心情についてはこれまで述べたとおりだろうと思うのですが、もう1つ、これは遺書や手紙などを読んでも十分に察せられますが、あの戦争の大義というものを彼らは信じていた。それもきわめて理性的な受け止め方です。

 映画「俺は、君のために〜」で大西中将が特攻を決断する場面で、私は手短にあの戦争の意味について語らせました。それは、日本の国体を守らなければならない。国体とは国家であり、民族の意志、心意気である。そしてまた数百年に及ぶ白人の有色人種支配を打倒し、有色人種の解放をめざす。たとえ戦いに敗れても、その日本の大義、志を歴史に残すために若者たちに死んでもらうのだと。

 私は、やはりあの戦争を日本が始めたのは自存自衛のためだったと考えています。やむを得ないものだった。そして、それ以前の日清、日露戦争、明治開国にまで溯って歴史を見なければ日本が置かれていた当時の状況が分からない。日露戦争に勝利してから、アメリカはどんどん日本敵視政策に傾いていった。日本人には土地の所有権も借地権も認めないという排日土地法(カリフォルニア州法)を皮切りに、1924年には排日移民法が制定された。まさに露骨な人種差別を仕掛けてきたわけで、昭和天皇ものちに排日移民法が日米間において最もショックなことだったと述べられています。

 野伏 その排日移民法に溯る1919(大正8)年、第一次世界大戦終結後の国際秩序を決める会議がパリで開かれています(ベルサイユ講和会議)。当時の日本は三大海軍国、五大陸軍国と言われる地位を国際社会に占めるようになっていましたが、この会議で「あらゆる人種は平等である。人は人種によって差別されない」という「人種平等規約」を国際連盟の規約として盛り込むことを提案した。人種によって差別されないことを国際社会の総意として正式に認めようという主張で、私はまさに゛20世紀の一大事″だと思っているのですが、何カ国かの白人諸国の反対で潰れてしまった。

 日本は採択を希望し、挙手による結果は、日本の提案に賛成が10票、反対が5票だったにもかかわらず、議長国のウィルソン米大統領は、「全会一致でないかぎりは否決されたものとする」と宣言した。それまでこの会議は、各案件の採択は多数決だったのですから、彼らの底意が奈辺にあるかは明らかですね。日本代表は抗議しましたが、否決という結果は覆りませんでした。このことは当時の日本人を大いに落胆させた。そして、まだまだ日本は力不足だと思ったでしょう。

 新城 その後も、昭和に入って開戦時のルーズベルト米大統領とチャーチル英首相の言動などを振り返ってみれば、いわゆる゛ABCD包囲網″や「ハル・ノート」を持ち出すまでもなく、彼らの側に日本を対等に扱う気のなかったことは否定できない事実です。開戦前の1941年8月、ルーズベルトとチャーチルは「大西洋憲章」に署名している。戦争回避のために近衛文麿が必死になって日米首脳会談を望んでいる頃、ルーズベルトはチャーチルと会っていたわけです。

「大西洋憲章」には領土の不拡大、通商や資源の均等開放などと並んで、その第3項に民族自決の原則が謳われていますが、チャーチルは臆面もなく、民族自決の原則はイギリス、フランスの植民地に対しては適用されないとイギリスの国会で答えている。ルーズベルトもそれに異論は出していない。白人は依然として、有色人種の国を自由に切り分けてよいということですね。日本が真綿で首を絞められるように追い込まれたのは、突き詰めて言えば、このケーキを切り分ける仲間に入りうる実力を、有色人種のくせに持ってしまったからでしょう。

 野伏 昭和18年11月、大東亜会議を経て出された「大東亜宣言」は、白人による「東亜侵略百年の野望をここに覆す」というものでした。これを単なる戦争プロパガンダと斬って捨てるのは、私はあまりに当時の日本の置かれた状況、歴史の真実を無視するものだと思います。これを主導した1人である重光葵は、「日本の戦争目的は、東亜の解放、アジアの復興であって、東亜民族が植民地的地位を脱して、各国平等の地位に立つことが、世界平和の基礎であり、その実現が即ち、戦争目的であり、この目的を達することをもって日本は完全に満足する」と述べ、それまで「自存自衛」のためとしてきた戦争目的に、「アジア解放」という理念の導入を進めました。新城さんがご指摘になったように、明治開国からの歴史を眺めれば、この戦争の理念は、大西洋憲章に完全に対抗するもので、白人と有色人種の間に横たわる巨大な歴史的必然とも言えるでしょう。

 19世紀初頭の英米の科学誌には、社会進化論の視点から、最も進化した人類は白色人種であり、その白人が劣等たる有色人種と結婚し子供をもうけることは大きな罪である、というような内容の論文が掲載されていたそうです。私たちのひいじいさん、ひいばあさんが生きていた時代の世界はこうだったのだという想像力を欠いたまま、今の価値観、人権観で当時の日本の行動を非難するのはフェアではない。敗色濃厚となってもなお、陸続と特攻隊として散っていった若者たちの知性、理性のなかには、こうした歴史認識があったわけです。これに身近な者たちを守りたいという強い意志、深い愛情が重なり合って、彼らは生還を期し得ない特攻に命を捧げていったというふうに思います。

特攻と沖縄戦、「あのときの日本人」との゛黙契″

 新城 戦前の日本は富国強兵、殖産興業をもって近代化を成し遂げ、白人列強の圧力を凌いで何とか独立を全うしようとした。残念ながら植民地経営など結果的に、ミイラ取りがミイラになってしまったきらいはあるけれど、初めから持たざる国として帝国主義の荒波に漕ぎ出さざるを得なかった日本にとっては、まさに生存のためにやむを得ないものがあった。アジア解放を掲げながら、アジアの民を苦しめることを避け得なかったことは、心ある多くの日本人の道義心を傷つけたと思います。しかし、野伏さんがおっしゃるように、その負の面だけを取り上げて、今のわれわれの価値観、道徳観だけで断罪してはいけない。

 靖国神社への非難も、そうした一方的な前提に立ったものが多い。A級戦犯が合祀されているのがけしからんと言うけれど、そもそもA級戦犯だとかB級戦犯だとかを誰が決めたのか。戦勝国が当時の国際法を無視して私刑同然に行った東京裁判の結果でしかない。戦勝国が正しくて、日本が一方的に悪かったなどということは絶対にない。

 私は沖縄生まれですから、沖縄で過ごした18年の間に民主主義国アメリカの偽善、独善、アンフェアを嫌というほど見聞きし、体験もさせられています。一体アメリカのどこが民主主義なのだろうと痛憤に駆られたことも再々ある。たとえば復帰前のことですが、青信号で横断歩道を渡っていた子供たちが米軍車両に轢かれた。運転手の答えは、「逆光の太陽光線がまぶしくて信号が見えなかった」って。バカ野郎ですよ。信号が見えなかったら停止しろ。それで無罪なんですから、ああ属国、植民地というのはこういうものかと痛感させられた。今、いたずらに反米感情を煽る気はありませんが、本当に復帰前の沖縄では程度の差はあってもこんな米軍の無法が日常茶飯事だったんですよ。だから私は、祖国日本に還りたいと真剣に願った。

 同時に、いわゆる゛沖縄の痛み″というものを振りかざして、被害者意識、犠牲者という感情だけで本土に対して正義を語るのもいやなんです。私は沖縄の人間としての誇りがどこにあるかをずっと考えてきました。沖縄が明確に「日本」になったのは、薩摩の琉球処分以降でしょう。しかしそれは政治的な側面で、長い歴史における日本文化というものを考えたら、沖縄人が持っている感性、心根というものは、むしろこっちが原日本ではないかと思っているのです。だからこそ近代になって日本が苛酷な帝国主義の時代を生き抜かなければならなくなったとき、沖縄の人間はその先頭に立って苦難を引き受けた。たしかに本土の人間からの差別はあったし、なぜ沖縄だけが…という思いに沖縄の人間が駆られるのには、それなりの歴史的事実がある。

 私が特攻と沖縄戦は切っても切り離せないと思っているのは、実はあの戦いこそが沖縄と本土の本当の紐帯、その永続のための記憶ではないか感じているからです。今の沖縄では、本土のために沖縄は犠牲にされたという史観がまかり通っています。しかし、そう決めつけただけで思考停止してしまっていいのか。本土決戦という意味を厳密に見れば、実は硫黄島も本土なんですね。当時は東京都京橋区のはずです。そして沖縄も日本最南端の本土の一部です。陸軍の作戦上の必要から沖縄決戦、本土決戦と分けられましたが、終戦が来なければ、沖縄で繰り広げられた悲惨な大激戦は本土の各地でも行われていた。そう考えると、すべての日本人がやがて来る戦いの順番を待っていたにすぎない。

 野伏 沖縄を守備したのは第32軍(牛島満中将)ですが、上陸してくる米軍を相手に一大決戦を挑むつもりで備えを固めた体制から、精鋭の第九師団を台湾に抽出され、一転して戦略持久戦をせざるを得なくなった。大本営の方針変更に翻弄された形で、沖縄は軍民ともに筆舌に尽くしがたい戦いを強いられることになりました。米軍が沖縄に上陸を開始したのは昭和20年3月。沖縄守備隊が全滅する6月23日までの戦いは、日本人であるならば決して忘れてはならないと私は思っています。

 新城 菊水作戦、天号作戦がそれぞれ発動され、九州各地から陸海軍の若者たちが、空から海から続々と沖縄に上陸する米軍を阻止するために特攻出撃をした。鹿児島の鹿屋は海軍の特攻基地、知覧は陸軍の特攻基地です。「俺は、君のために〜」は知覧を舞台に、苛酷な時代を生きた若き特攻隊員と鳥浜トメさんの交流を描くことで、彼らの声を今に伝えたい、想いを甦らせたいと作った作品ですが、とくに私と石原さんが描きたかったのは、隊員たちの苦悩、葛藤、その果ての決意と究極の奮闘、そしてそれを見送るしかなかったトメさんとの悲しい、愛しい想いの交わりなのです。

 明日は出撃と決まった隊員たちが挨拶に来る。彼らは、トメさんが私財を投げ打って隊員の世話をしてくれていることを知っている。母のように思っている。

「おばちゃん、いろいろお世話になりました」

「そう…」。トメさんは「行ってらっしゃい」とは言えない。言えるはずもない。一体どんな顔をして彼らを送ったのか。どんな言葉をかけたのか。こんな苦しい、辛い立場があるだろうかと思いながら演出しましたが、しかし、双方にはちゃんと゛黙契″がある。映画の最後で車椅子に乗ったトメさんを中西大尉が押しながら桜並木の下を歩いていると、彼らは乱舞する蛍ととともに現れて、2人を笑顔で迎える…。「靖国で会おう」というのはこういうことで、戦後、特攻隊のことが忘れられ、悪し様に言われるようになっても、一貫して慰霊と感謝の誠を捧げ続けたトメさんこそが、「君のためにこそ」と死んでいった彼らとの黙契を守った見事な日本人だったと思います。

 野伏 「止めることもできもはん。慰めることもできもはん。ただただ、あん人達の魂の平安を祈ることしかできませんでした」と語るトメさんの思いを、今のわれわれがどれほど自らの存在に関わることとして共有できるか。゛黙契″という意味では、沖縄と本土の人間にもそれがなければならない。歴史小説の大家である山岡荘八は、戦時中は海軍の報道班員でした。知り合いの新聞記者に教えてもらったのですが、戦後、『小説太平洋戦争』(全九巻、講談社)という大作を著して、沖縄戦と特攻をめぐってこう書き記しています。

 白菊部隊という予科練出身の17、8歳にしか見えない少年航空兵たちの訓練や出撃の様子を記したあと――彼らは、いよいよ爆装していく零戦がなくなってカンバス張りの練習機で特攻した――、「その頃には、沖縄の現地でも、同じ年齢ごろの少年少女が、鉄血勤皇隊と称し、ひめゆり部隊、白梅部隊、瑞泉、悌悟、積徳部隊などとして、まなじりを決して現地軍を助けながら、血みどろの抗戦を続けていたのだが、それらの少年少女の両親に、わずかに告げたいことは、内地でもこうした学徒や少年兵たちが、続々と沖縄の同胞の苦難に純真をささげていったという事実である。

 沖縄県民の受難は言語に絶する。しかし、本土でのこれに対する協力ぶりもまた、1人の作家の人生観を一変させるほどに、凄烈をきわめたものであった」と。

 また、海軍の太田実少将が最後に海軍次官に宛てて発した電報には、「陸海軍沖縄に進駐以来、終始一貫、勤労奉仕、物資節約を強要せられて、ご奉公の一念を胸に抱きつつついに……(不明)……報われることなく、本戦闘の末期を迎え、実状形容すべくもなし。一木一草焦土と化せんとす。食糧は六月いっぱいを支えうるのみなりという。沖縄県民かく戦えり。県民に対し、後世特別のご高配を賜らんことを」とある。これは太田少将の日本の同胞全体に対する伝言の意味を持つ、と山岡さんは記していますが、私もまったく同感です。

 新城さんがおっしゃるように、特攻と沖縄戦というのは、後世の日本人が、あのときの日本人との゛黙契″を果たせる誠実さを持ち合わせているかどうかを、この国があるかぎり問い続けるものだと思います。

 新城 沖縄戦の実相は非常に複雑です。住民の集団自決に軍命令があったかどうかという問題が今は喧(かまびす)しいけれど、スパイと疑われて軍に殺害された住民がいたのは事実ですし、自決を望んだ住民に手榴弾を渡した軍人もいたでしょう。真実は決して1つには括れない。しかし、これだけははっきりしているのは、日本軍は沖縄県民と戦ったのではない、また沖縄県民も日本軍を相手に戦ったのではない。軍民ともに悲惨な運命に放り込まれ、ただただ筆舌に尽くしがたい苦難をともに味わったということです。

 私は本土の人間と沖縄の人間をことさら離反、反目させるような議論に与したくない。沖縄の人からは「沖縄人なのに何だ」と気色ばまれることもあるけれど、私は沖縄人であると同時に日本人だからです。「俺は、君のために〜」の撮影前、知覧に行って特攻出撃者の名簿で真っ先に調べたことがあります。それは、沖縄出身者はいるかということ。いました。まさに先駆けとして出撃している。

 あの戦争の大きな歴史的意味を考え、歴史の多様な真実のなかから何を汲み取るか。過去の歴史を反省するということは、あの時代の日本人を一方的に糾弾することではなく、まず、その苦悩、葛藤、決意の言葉に真摯に耳を傾けることだと思います。そこに無限の蒼穹の広がりを見ることができれば、私は、日本人はまだまだ大丈夫という気がします。


(略歴)
新城 卓氏
昭和19(1944)年沖縄県生まれ。
昭和39年上京、シナリオ研究所に学ぶ。
その後、今村昌平、浦山桐郎監督のチーフ助監督をつとめ、58年、東峰夫の芥川賞受賞作を映画化した「OKINAWAN BOYS オキナワの少年」で監督デビュー。
以後「ザ・オーディション」「あいつに恋して」「秘祭」などを手懸ける。

野伏 氏 昭和27(1952)年茨城県生まれ。
獨協大学外国語学部卒。
文学座演劇研究所を経て演劇ユニット「夜想会」を設立。
「リア王」(主演・滝田栄)、「鹿鳴館」(同・村松英子)など演出多数。
平成8年、映画「MUSASHI」を初監督。
空手道、少林寺拳法、居合道、剣道を趣味とし、計十段。

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