5月17日午前9時過ぎ、1人の外国人が成田空港から日本を発った。笑顔で「日本のみなさんありがとう」と手を振りながら。台湾に住む古物商で亡命チベット人2世のタシィ・ツゥリン(台湾名・札西慈仁)氏、42歳。4月26日に長野市内で行われた聖火リレーで、卓球日本代表の福原愛選手の列の前に飛び出した「あの人」だ。
マスコミが報じた虚像
ハプニングは突然起きた。JR長野駅や善光寺周辺と比べて、比較的観客の数が少ないコース中ごろの沿道。タシィ氏は「フリーチベット!」と泣き叫びながら、ジャケットの中にしまっていたチベットの雪山獅子旗を両手で握りしめ、ロープをまたいで車道へ飛び出した。走った距離はわずか5メートルほど。雪山獅子旗を取り出す前に、警官5、6人に取り押さえられ、地面に顔を押さえつけられたが、「フリーチベット」の泣き叫ぶような声は消えなかった。
私はその゛事件″が起きる直前にたまたまタシィ氏と出会い、同行取材をする僥倖に恵まれた。その瞬間、タシィ氏のそばにいたマスコミ関係者は私だけで、夢中でカメラのシャッターを切り続けた。
この模様を、日本のテレビ局各社は生中継しただけでなく、ニュースや報道番組で繰り返し放映した。新聞各社も軒並みその日の夕刊1面にタシィ氏が取り押さえられた写真を掲載。産経新聞の大阪夕刊では、1面に写真を掲載するとともに、社会面に「『フリーチベット』叫び届かず 亡命2世、泣きながら乱入」という記事を書き、タシィ氏が飛び出すに至った経緯や背景について詳細に報じた。
しかし、産経新聞以外のマスコミ各社はタシィ氏のことを次のように表現した。「無職の男」「小太りの男」「台湾籍の建設作業員」…。彼が亡命チベット人2世ということにまったく触れず、あたかも狂人による蛮行かのように描いた。あるスポーツ紙に至っては、福原愛選手に焦点を当て、「かつて中国超級リーグに参戦し、現地では今もアイドル級の人気。チベットとの対立構造の中、男に余計な゛妄想″がふくらんだのか?」と冗談めかした記事を書いた。タシィ氏の「フリーチベット!」という叫びについても、テレビを通してはっきり聞こえていたはずなのに、「何事かわめいていた」「意味の分からない言葉を叫んでいた」などと描写する始末だった。
この結果、高村正彦外務大臣は真実を知ってか知らずか、「逮捕者の中に中国人やチベット人は1人もおらず、大変良かった」とのコメントを発表した。
確かに、現行犯逮捕され、拘束されていたタシィ氏についての正確な情報を伝えるのは、極めて難しい。それは同じ新聞記者として理解できる。私自身、たまたまタシィ氏と出会っていなかったら同じ愚を犯していたに違いない。
なぜ、私はあの場にいたのか−。
当時、北京五輪の聖火リレーは行く先々で騒動を巻き起こしていた。マスコミの関心も高く、あの日も、新聞やテレビなどマスコミ各社は数人から十数人の態勢で、長野市での聖火リレー取材に臨んでいた。産経新聞も東京本社から複数の社会部員を投入、私は取材班とは別に、「チベット人の声」を取材するため現地に向かった。
前日に長野入りした私は当日の朝、善光寺で行われるチベット動乱の被害者を弔う法要を取材するため、JR長野駅から延びる中央通りを北に向かって歩いていた。聖火リレーの走行ルートにも当たる通りは、前日とは打って変わり、騒がしい喧噪に包まれていた。
「ワン・チャイナ!」「恥を知れ!」「フレーフレー中国!」。中国の留学生らが手にした五星紅旗で真っ赤に染まった中央通りで、たまたま出会ったのが、タシィ氏だった。褐色の肌と英語での会話から、彼がチベット人ということが分かった私は゛犯行″前のタシィ氏に同行しながら、話を聞いた。
亡命2世の悲哀
タシィ氏は1966年、家族の亡命先だったインドの難民キャンプで生まれた。父親は中国のチベット侵攻後の1959年、政治的理由で中国当局に拘束され、死刑を宣告された。しかし執行前日、窓から飛び降りて脱走、一命を取り留めた。その後、妻と当時7歳だった兄を連れてヒマラヤ山脈を越えたという。
タシィ氏は沿道で私にこう話した。「オリンピックに反対しているわけではない。ただ、チベットの惨状を全世界に訴えたい。今日はその絶好の機会だと思っている」
インドで難民として育ったタシィ氏は、常に「どこにも所属しないホームレス」のような感じを抱きながら育った。国籍も戸籍もない。難民登録カードしか自らを証明するものはなく、職業や居住地も限られていた。その後、「Republic of China」という文字に抵抗感があったが、台湾の市民権を取得した。何よりバックグラウンドが欲しかったという。
「亡命に成功した後に生まれた亡命2世は、それほど苦労がないように思われるかもしれない。子供のころは両親の事情やチベットが置かれていた状況などは何も分からなかったけど、どこまでいっても外国人でいる気分からは逃れられなかった。台湾の市民権を取ったけど、台湾人ではない。チベットに戻っても中国人がたくさんいる。一体何国人なのか分からない。自分の根拠がものすごく希薄なんだ」
さらに、「自分自身も難民として大変だったが、それ以上に、両親がどれほど苦労してきたかを見ている。もし自分の国にいることができたのなら、自分の家があった。自分の畑があった。自分の仕事があった。それらをすべて捨ててインドに亡命せざるをえなかった。言葉すら話すこともできない異国の地で、何もないところから苦労をしなければならなかった。その原因についてはよく分かっているつもりだ」
独立は両親の悲願
「2世」であるタシィ氏は、動乱を直接経験したわけではない。しかし、その心には、父親の壮絶な体験が刻み込まれている。
死刑を宣告されたタシィ氏の父親は、天井付近に小さな窓のある狭い牢屋に閉じこめられていた。窓の外は断崖絶壁。このままでは明日には殺される。それだったら一か八か…。意を決して壁をよじ登り、小さな窓から飛び降りたところ、崖面から30センチ程度だけ突き出た小岩に引っかかって助かった。
父親は家に残していたタシィ氏の母親と、当時チベット仏教の寺院に預けていた長男とともに、日中は木陰や岩穴に隠れ、日が暮れると全速力で走った。2週間かけてヒマラヤ山脈を越え、ようやくネパール国境付近に到着した。
チベット自治区では、こうした逃亡が現在も続いており、その数は年間2000〜3000人に上るという。
両親が他界してから4、5年が経つ。今際の際に、「有名な闘士だった」父親はタシィ氏ら11人の子供たちに、自分の生涯に起きたことを話してくれた。「生き残れたのは奇跡だった」。さらに声を振り絞って続けた。「次はお前たちがこの闘争を続けていかなければならない。もしお前たちがやめてしまったら、これで打ち切りになるのだから」
まるでパズルのピースのように、父親の言葉はタシィ氏の「どこにも所属しないホームレス」のような空虚感を埋めてくれた。今は自分たちの手の中にはないが、チベットが自分たちの祖国なんだ。
「チベット独立は両親の悲願。それを実現するために、私には残りすべての人生を犠牲にする覚悟がある」
3月初旬の太陰暦における正月、3月10日の「チベット決起記念日」、7月6日のダライ・ラマ14世の誕生日、12月10日の「世界人権の日」。年に4回は必ず、平和的なデモなど抗議活動を行ってきた。だが、若いときには失敗もした。抗議活動の最中、理不尽な暴力をふるわれ、頭に血が上り思わず反撃したところ、逮捕され約1カ月間拘束された。そんなとき、ダライ・ラマ14世の言葉に接し、考え方が変わった。
「チベットはチベット人のもの。チベットを自由にするためにはいかなることもしたい。ただ、平和的であって非暴力の手段を使うべきだ」
羽織っていた雪山獅子旗を手に持ち、それを慈しむようになでると、タシィ氏はおもむろに視線を上げ、私の目を見据えながらこう付け加えた。
「でも、ダライ・ラマ14世が仮に『どのような手段を使っても独立を目指す』といったら、私は真っ先に身を投じるつもりだ。チベットの自由を取り戻すためだったら、私は死も恐れない」
不当な長期拘留
長野市の聖火リレーでは、タシィ氏と日本人5人の計6人が現行犯逮捕された。そのうち、ランナーの列にトマトを投げるなどした男ら3人は翌27日に早々に釈放された。だが、威力業務妨害の現行犯で逮捕された東京都内の男(25)、道交法違反容疑などで逮捕された横浜市の男(33)に加え、タシィ氏も長野地検に送検され、あろうことか刑事訴訟法で規定されている最大の拘束期間である20日間も長野中央署に拘留されることになった。
実は、日本の台湾領事館に当たる台北駐日経済文化代表処の職員は27日に釈放されるものと思い、長野まで出向いていた。しかし釈放はなく、空振りに終わった。長野県警などの公式なコメントは、「継続捜査の必要があるため」という短いものだった。
そもそも「威力業務妨害」とはどのような罪状なのか。刑法234条の規定には「威力を用いて人の業務を妨害した者も、前条の例による」とある。前条の例とは、「3年以下の懲役又は50万円以下の罰金に処する」。法律論では、威力とは直接的、有形的な方法と解釈されているが、果たして今回のタシィ氏の行動がそれに該当するのだろうか。
タシィ氏は聖火リレーのトーチを奪うといった「直接的」な行動には出ていない。単に、聖火ランナーだった福原愛選手の前に飛び出し、胸に抱いた雪山獅子旗を、テレビカメラの前に示そうとしただけだということは、当時の映像を見れば明らかに分かる。さらに、タシィ氏の行動によって聖火リレーが停滞するといった「業務の妨害」にも至っていない。ちなみに威力業務妨害に未遂という概念はない。福原選手は一瞬驚いた表情は見せたが、そのまま何事もなく通り過ぎた。もちろん怪我もなかった。
このような軽微な犯行態様であるにも関わらず、なぜ20日間も不当に拘留され続けたのか。それには2つの理由が考えられる。
1つ目は、中国の胡錦涛国家主席の来日だ。胡主席は5月6日から10日まで来日し、7日に東京都内で福田康夫首相と首脳会談を行った。タシィ氏の1回目の拘留期限(十日間)は七日だった。
仮に送検せずに釈放した場合、それよりも早い四月二十七日には外に出ることができる。もちろんタシィ氏は適正な手続きに則って来日しているため、台湾に強制送還することもできない。早期に釈放した場合、胡主席の訪問先に合わせて、デモなどの抗議活動を行う可能性が高いという゛危惧″が、捜査当局にあったのではないか。ましてや中国国家主席の来日は平成十年の江沢民前主席以来、十年ぶりのこと。何らかの政治的配慮が背景にあったとみるのが自然だろう。
執拗だった県警の尋問
もう1つが、タシィ氏自身の背景にある。実は彼は、チベット青年会議(西蔵青年会)台湾支部の副支部長を務めている。チベット青年会議とは、世界70カ所以上に支部を持ち、約3万人のメンバーを抱えるチベット人の非政府組織(NGO)だ。亡命チベット人の22、3世といった若いメンバーが多く、ダライ・ラマ十四世に対する忠誠を誓うとともに、ハンガーストライキを断行するなど行動派としても知られている。
中国政府はチベット青年会議について、「ダライ集団の権力中枢の一部で、暴力事件を企ててテロ活動を行うことを第一手段としてきた」と一方的に断じているが、事実はまったく異なるのはいうまでもない。
しかし長野県警や長野区検は、タシィ氏がチベット青年会議の幹部ということで、彼の背後関係について執拗に質問していた節が見受けられる。釈放後に彼は県警の取り調べについて以下のように話していた。ちなみに取り調べには、中国(北京)語の通訳が付き添い、調書は翻訳してもらいながらサインしたという。
「確かに最初はこれほど長期間拘留されるとは思わなかったが、色々と質問してくる警察官の様子を見て、これは長引くんじゃないかと途中から思った」
「今まで自分がどういう活動をしてきたかについて相当調べ上げているようで、それについての確認のようなものが多かった。これまで独立のために活動してきたけど、平和裏にやってきたので何も隠さずにすべて話した」
「日本の捜査当局は、私がチベット青年会議の一員として、ネパールで聖火リレーに対する抗議活動に参加していたことを把握していた。それについては相当な時間をかけて何度も何度も質問された。当局は色々と知っているような感じを受けた」
ただし、捜査当局の取り調べは高圧的なものではなかったようだ。
「私の印象では、日本の捜査当局はあくまで法律に沿って質問しているような印象を受けたし、当初は(私に対して)過激じゃないかという印象をもっていたのを、最終的には、完全にそれは違うと、あくまで平和的な活動をしてきたと納得した上で釈放してくれたと思っている」
いずれにせよ、日本の捜査当局が不当に長期にわたってタシィ氏を拘束し続けた事実は免責されない。立ち寄った多くの国で騒動になった聖火リレーだったが、抗議活動で逮捕された者の中でタシィ氏ほど長期間拘留された例はない。彼らのほとんどが数日間で釈放されている。
そもそもタシィ氏は1人で来日したのだ。当日は長野市内の地図すら持っていなかったし、どのルートを聖火リレーが通るのかも正確には知らなかった。何らかの団体の意を受けて行動した訳ではないのは明らかだろう。
また、私は事前にタシィ氏に対し、どのような手段で抗議をするのか尋ねたところ、「何か計画を立てているわけではない。自分の感情に従って抗議の気持ちを表現するつもり。大声で叫ぶかもしれないし、泣くしかできないかもしれない」と語っていた。当初から飛び出す計画を考えていたわけでもないのだ。事実、4月19日にタイ・バンコクで行われた聖火リレーに抗議活動に出かけた際、国連ビル前で雪山獅子旗を握りしめたタシィ氏は、感極まってただ号泣していただけだった。
広がる嘆願の声
長期拘留の見通しが強まった4月30日。台湾のチベット支援団体のメンバーら40人以上が、台北市内でタシィ氏の釈放を求め、抗議デモを行った。日本の在外公館である交流協会に手渡された声明では、「日本は独裁権力国家ではなく、言論の自由を有する民主主義国家であるはずで、人々の自由な意見の表現に対しては、最大限の尊重が与えられるべき」と指摘。タシィ氏の行動については「聖火に近づこうとし、彼の主張を叫んだにすぎない。暴力をもって聖火に危害を加えるようないかなる状況も発生していない」とし、拘留を決めた捜査当局の対応に不満を表明した。
また、mixiや2ちゃんねるといったインターネットの掲示板でも、支援の声が上がり、捜査機関に釈放を嘆願するメッセージを送ることを呼びかけるなどの動きが起きた。その中心的存在だった「チベット問題を考える会」の小林秀英代表は「多くの日本人はタシィ氏の姿を見て、長期拘留に疑問と不満を抱いていた。嘆願活動は、彼を助けたいという気持ちから自然発生的に始まった」と話した。
実際、拘留されていたタシィ氏の手元には、百通を超える激励の手紙が寄せられた。「日本人はみんなタシィさんの味方です」「あなたの雄姿には感動しました」「日本政府の不当な扱いについて、代わりに謝罪します」…。タシィに伝わるようにと、英語や中国語で書かれたものが多く、彼はそれを何度も何度も読みながら涙を流したという。「日本人みなさんの気持ちにどれほど励まされたことか。このことは生涯忘れません」。後にタシィ氏は嬉しそうにそう振り返った。
ネット上では募金活動も起き、拘留期間だけで全国から79万円もの寄付が集まった。略式命令を受けて釈放される際に支払った罰金50円は全額、その善意から支払われた。
ただ、こうした状況についても日本のマスコミはほとんど報道しなかった。手前みそで恐縮だが、もし私があのときタシィ氏と出会えていなかったら、と思うとぞっとする。日本のマスコミすべてが、「台湾籍の男」という表現だけで処理し、事実を報道する義務を放擲していたのではないか。
産経新聞の報道を受けて、即座に反応したのが、コラムニストの勝谷誠彦氏だった。勝谷氏はテレビのコメントなどで、タシィ氏の背景についてさかんに触れ、関西系メディアなど、わずかではあったがこの問題を電波に乗せた。
やむにやまれぬ行為
5月16日夜。22日ぶりに釈放されたタシィ氏は支援者らとともに、東京都内で産経新聞などのインタビューに応じた。ここにも、出席した新聞やテレビメディアはごくわずか。朝日新聞などは記者を派遣していたにも関わらず、翌日の朝刊に記事はなく、読売新聞(東京版)がかろうじて「聖火リレー妨害 2人に罰金の略式命令」のベタ記事を載せただけだった。
一体、彼らは何に遠慮しているのか。どこの国に気を使っているのか。
インタビューで、タシィ氏は胸の前で両手を合わせながら、「日本のみなさん、政府、警察にご迷惑をかけたことにお詫びします」と謝罪。その上で、「今回日本に来て、日本の法律を犯さざるをえなかった必然的な理由があった。私としてはやむをえない行動であったことをどうか分かってほしい。自分自身はインドで生まれて祖国のことは見たことないし、知らない。しかし、両親から聞いて何があったかということについて常に考え、今日まで一度も心が落ち着いたことはない。今、チベットの中で何が起きているか。今回の動乱で多くのチベット人が死んだことを考えると、じっとしていられなくなった。だからあのような行為に至ったのだ」と訴えた。
通訳としてチベット出身の政治学者、ペマ・ギャルポ桐蔭横浜大学大学院教授が同席。タシィ氏は改めて謝罪の言葉を述べた後、「チベットで何が起きたのか伝えなければならなかった。平和的に抵抗したことを゛暴力的行為″だと誤解しないでほしい」と強調した。
さらに当日の様子について、「聖火リレーという全世界の注目が集まる絶好の機会で、チベットの惨状をどうしても訴えたかった。しかし、歩道を歩いているときに、中国人留学生のデモ隊らが挑発的な言葉を繰り返した。ダライ・ラマ1四世について悪く言われ、自分の父親や刑務所に入れられたチベット人がどういう目にあったかということを思い出し、どうしても我慢できなくなった。初めから飛び出そうと決めていたわけでなく、気が付いたら行動を起こしていた」と話した。
また、福原愛選手の際に飛び出したことについては「私はどういう方か全く知らなかった。たまたま、飛び込んだのがその方だったということにすぎない」。後に、福原選手が胡錦涛国家主席と卓球をしたことを知ったといい、「それはカルマ(業)かもしれない」と答えた。
四川大地震についても言及。「生死をさまよっている人を助けることの方が五輪より重要だと思う。チベット仏教では、『人に対してためになることができなくても害は与えるな』という格言がある。ただチベットに害を与えるのは中国政府であり、中国の人々には同じ人間として幸せになってほしい」と話した。
地に墜ちた信用
この時のインタビューでも、長野県警に対する批判や不満は、最後まで聞かれなかった。そのことが、却って県警の不当な対応を浮き彫りにした。
タシィ氏の印象は21日前とは一変、げっそりと頬がこけ、長期拘留の厳しさを雄弁に物語っていた。彼が台湾に戻った際、家族は、知人は、メディアを通じた台湾中の人々は、いったい何と思うだろう。
今回の問題で、長野県警の対応の波紋は決して小さくない。かつて日本の警察組織は、不正の少なさと高い捜査能力で世界中から賞賛されていた。民主主義国家の法の番人として、最もふさわしい組織と思われてきた。だが、タシィ氏に対する不当な長期拘留の後で
も、右の評価に恥じない組織と言えるだろうか。
チベット問題で世界は、中国当局が僧侶らを不当に拘束し、拷問を加え、時には死に至らしめているとして、抗議の声を上げた。私たちもまた、中国当局は人権無視の行為を改め、僧侶らを即時釈放すべきだと訴えてきた。
しかし今、日本の警察も五十歩百歩ではないかと言われれば、私たちは返す言葉がない。
当事者のタシィ氏が前向きなのが、唯一の救いだ。「インドで生まれたので見たこともないが、自分のふるさとはチベットであると確認できたし、今回多くのみなさんにチベットのことを知ってもらった。それだけで満足だ」「自分の国が自分に何をしてくれるのかではなく、自分が自分の国のために何ができるのかという使命感をもって、自分の国を取り戻すために全力をそそぎたい」と力強く語った。
インタビューの翌日、成田空港でタシィ氏は、見送りに来た数人と固い握手を繰り返し、時には肩を抱き合いながら、時間ぎりぎりまで搭乗ゲート付近で別離を惜しんだ。「せっかく日本に来たのに、ちゃんと観光もできなかったな」。見送りに来た1人がつぶやく。日本で滞在した23日間のうち大半を゛閉ざされた空間″の中で過ごしたが、タシィ氏はまったく不平をこぼさなかった。「日本のみなさんに心から感謝しています」。胸の前で両手を合わせ、彼は何度も頭を下げながらゲートをくぐった。
「おかえりなさい! チベットのヒーロー」。関係者によると、その約5時間後、台湾の地に降り立ったタシィ氏を待っていたのは、大きな横断幕を掲げた友人らの熱烈な歓迎だった。数十人の友人らがそれぞれ、カターと呼ばれる白い布を彼の首に巻き付けた。チベットの風習で「心からの敬意」を表現するこのもてなしを受けた彼は、目を真っ赤にはらしながら感謝の言葉を述べたという。
亡命者の後ろ姿
印象に残っているタシィ氏の言葉がある。長野市内で彼に同行していたとき、チベットの雪山獅子旗を掲げる一団と遭遇した。「ワン・チャイナ」と連呼しながら、持っていた五星紅旗で彼らの進路をふさごうとした中国人留学生と、彼らはもみ合いになった。その際に飛び出た下品な怒号から、チベット支援者の中でも、明らかに筋の悪い一団ということは分かった。「中国憎し」という感情だけで、チベット問題を゛利用″するグループもいるということをタシィ氏に話すと、うんうんとうなずきながらこう述べた。
「それぞれの事情があるのは分かるけど、それはそれでいい。ただ、異国の地でこんなにもたくさんのチベットの雪山獅子旗を見ることができて、日本のみなさんには本当に感謝したい」
かつて台湾の李登輝元総統は、作家・司馬遼太郎との対談で、独立を声高に唱えることができず、アイデンティティーが希薄な台湾人の苦しみについて、「台湾人に生まれた悲哀」と表現した。
五十年以上にわたり、日本を含め多くの国から無視され続けたチベット。ラサでの動乱や北京五輪の聖火リレーを巡る混乱を経て、国際世論のスポットライトを浴び始めたのは、ようやく今年に入ってからのことだ。
胸の前で両手を合わせながらただ感謝の言葉を繰り返すタシィ氏に、愛すべき祖国をなくした亡命者の姿を見た気がし、゛チベット人として生まれた悲哀″を狂おしいほどに感じた。