「歴史は繰り返す?」「いつか来た道?」「歴史を教訓になんてできるのか?」
沖縄戦についての教科書検定をめぐる一連の報道を見ていて、そんな言葉が次々に頭に浮かんできた。そして、戦前戦後に起きた歴史学や憲法学をめぐるいくつかの事件を思い出し、実証主義を実現することの困難さをつくづく考えた。だが、それについて語る前に、まずは今回の問題の要点を整理しておこう。
今年(平成19年)3月30日、文部科学省は平成20年度から使用される高校用教科書の検定結果を公表した。その中で、日本史A、Bでは、先の大戦末期の沖縄で起きた住民の集団自決について、日本軍の命令や強制であったとする記述に初めて検定意見がつけられ、出版社側が修正して合格となった。検定前と検定後でどう変わったのか、いくつか例をあげてみよう。
*「日本軍がスパイ容疑で虐殺した一般住民や、集団で『自決』を強いられたものもあった」→「『集団自決』においこまれたり、日本軍がスパイ容疑で虐殺した一般住民もあった」(『東京書籍・日本史A』)
*「なかには日本軍に集団自決を強制された人もいた」→「なかには集団自決に追い込まれた人々もいた」(『清水書院・日本史B』)
*「日本軍は、県民を壕から追い出し、スパイ容疑で殺害し、日本軍のくばった手榴弾で集団自害と殺しあいをさせ、800人以上の犠牲者を出した」→「日本軍は、県民を壕から追い出し、スパイ容疑で殺害したりした。日本軍のくばった手榴弾で集団自害と殺しあいがおこった。犠牲者はあわせて800人以上にのぼった」(『実教出版・日本史B』)
この検定による修正を考える上でのポイントは2つある。1つは、日本軍による命令・強制の削除が、実証的な調査や研究に依拠したものであり(曽野綾子氏の調査や生き残った人々の証言)、それを覆す事実はまだ発見されていないこと。もう1つは、日本軍と集団自決との間接的な関連(「関与」)まで否定されているわけではないこと。
ところが、この検定に異議を唱える人々が現れ、6月9日には沖縄県庁前で「6・9沖縄戦の歴史歪曲を許さない−県民大会」が開かれ、6月22日には沖縄県議会が全会一致で「検定意見が撤回され、同記述の回復が速やかに行われる」ことを政府関係機関に要請する意見書を可決し、さらに、9月29日には沖縄の宜野湾市で「教科書検定意見撤回を求める県民集会」が開かれて、そこに11万人もの人々が集まったと報道された。これによって政府は動揺し、渡海紀三朗文部科学相が「真摯に対応する」と述べて、教科書会社から訂正申請があれば書き換えを認めるとも受け取れる発言をするにいたった。報道によれば、この文科相の発言を受けて、現在、複数の教科書会社が日本軍による命令・強制の記述を復活させる内容の訂正申請を行っているという。
この事態について考えておくべきポイントは4つあると思う。
@集団自決について゛検定が否定したのは日本軍による命令・強制であった″のにもかかわらず、反対運動の中で、゛日本軍との間接的な関連まで否定された″との事実のすり替えが行われたこと。「琉球新報」の6月10日の記事は「文部科学省の高校教科書検定で沖縄戦の『集団自決』記述から日本軍の関与が修正・削除されたことに抗議する」ために「6・9沖縄戦の歴史歪曲を許さない−県民大会」が開かれたと報じ、沖縄県議会の「意見書」は「沖縄戦における『集団自決』が、日本軍による関与なしに起こり得なかったことは紛れもない事実であり、今回の削除・修正は体験者による数多くの証言を否定しようとするものである」と主張している。
A軍の関与の否定という存在しない修正・削除を根拠としての軍の命令・強制記述の復活という陰謀めいた詐術が行われようとしていること。
Bこの詐術を否定しがたくしているものの1つが9月29日の「教科書検定意見撤回を求める県民集会」に11万人もの人々が集まったという主催者発表を鵜呑みにした誤報ともいうべき報道であること(10月28日付産経新聞によれば実際は2万弱であったらしい)。つまり、虚構の「数」によって歴史が創作されようとしているのである。
C沖縄県民の感情への配慮という曖昧であるが故に否定しがたい倫理的要求が、実証的な検証やそれに基づいた記述・主張を行い難い空気を作り上げつつあること。民主党の輿石東参院議員会長は10月4日の代表質問で「9月29日に党派を超えて抗議するために集まった11万人に上る沖縄県民の心をどう受け止めているのか」(10月5日付産経新聞)と福田首相に迫っている。
南北朝正閏(せいじゆん)問題の経緯
私が思い出した事件の1つは、明治44年におきた「南北朝正閏問題」である。「南北朝正閏問題」というのは、尋常小学校国定第2期児童用、教師用教科書の中の南北朝に関する記述が、゛南北朝並立論をとっていて怪しからぬ″と南朝正統論者から批判された事件である。事件の経緯は次のようなものだった。
明治20年代に産声をあげた日本の「国史学」は、考証史学の「至公至平」の原則に基づいて南北朝並列論に立ち、編纂が進められていた『大日本史料』でも両統並立の立場がとられていた。この国史学の立場を反映して明治42年9月に出された児童用『尋常小学日本歴史巻一』では「第23」章が「南北朝」と題され、「南北両朝の対立」という見出しの下に、次のような記述になっていた。
「尊氏は更に光厳上皇の院宣を請ひて上皇の御弟を位に即け奉れり。之を光明天皇と申す。やがて後醍醐天皇は尊氏の奏請を納れて一旦京都に帰り給ひしが、間もなく忍びて吉野に遷り給ひき。これより吉野の朝廷を南朝と云ひ、京都の朝廷を北朝と云ふ。かくて天下の乱は遂に両皇統の御争の姿となり、戦乱57年の久しきに及べり」(この教科書の巻末に付されていた「御歴代表」と「御略系」には北朝の天皇も記されていた)
そして、この教科書の解説書にあたる『尋常小学日本歴史 巻一 教師用下』では[南北朝の正閏につきて]と題して「南北両朝の対立は、遠くは安徳・後鳥羽の両天皇、近くは後醍醐・光厳の両天皇の同時に皇位にましませしと同じく、我が歴史上の一時の変態にして固より常例を以て律すべきに非ず。旧説或は南朝の皇位を認めざるものあり、或は之に反して北朝を以て閏位となすありと雖も、要するに鎌倉時代に於て持明院(後深草天皇の御子孫)大覚寺(亀山天皇の御子孫)の両皇統の交互に皇位を継承し給ひしもの偶〃時を同じくして南北に対立し給ひし一時の現象にして、容易に其の間に正閏軽重を論ずべきに非ざるなり」と解説されていた。
「南北朝正閏問題」は、この教科書の記述が、明治44年1月19日の「読売新聞」の社説(「南北朝正閏問題[国定教科書の失態]」)で、南朝正統論の立場から「もし両朝の対立をしも許さば、国家の既に分裂したること、灼然火を見るよりも明かに、天下の失態之より大なるは莫(な)かるべし。何ぞ文部省側の主張の如く一時の変態として之を看過するを得んや」と批判されたのに端を発する。議会内では、立憲国民党の犬養毅と河野広中が政府の問責を目的として「大逆事件並びに南北朝正閏に関する決議案」を提出し、議会外では大日本国体擁護団が結成されて各地で政府糾弾集会が開かれ、『日本及日本人』『教育界』『太陽』といった雑誌や「読売新聞」などで論争が展開された。明治維新は南朝とその忠臣を慕う心情に深く根ざして遂行されたものであったから、明治天皇が北朝の血筋に属するとはいえ、この論争においては、南朝正統論が圧倒的に優勢だった。
そして、この論争を知って驚いた元老の山縣有朋が桂太郎首相と小松原英太郎文相に圧力をかけて、南朝正統論に基づく教科書の訂正と北朝の天皇の歴代表からの削除を閣議決定させてしまった。その結果、明治44年10月の『尋常小学日本歴史巻一』では「第23」章は「吉野の朝廷」と改められ、「吉野の朝廷」という見出しの下に、次のように記されることになった。
「尊氏は賊名を避けんがために、豊仁(とよひと)親王を擁立して天皇と称せり。これを光明院といふ。ついで偽りて降り、[後醍醐]天皇の還幸を奏請せり。天皇すなわち義貞に勅して、皇太子恆良(つねなが)親王を奉じ、北国に赴きて恢復(かいふく)を図らしめ、かりに尊氏の請を許して京都に還幸し給ひしかど、間もなく、ひそかに神器を奉じ吉野に還幸して行宮を定め給ひき。時に延元元年(紀元1996年)なり。これより、世に吉野の朝廷を南朝といひ、尊氏の擅に京都に立てたるを北朝といふ」(巻末の「御歴代表」から北朝の天皇は除かれた)
「閣議決定」の結果は小学校歴史教科書の改訂のみにはとどまらなかった。今日の『学習指導要領』にあたる中学校や師範学校の「教授要目」も改正され、教科書の作成者であった喜田貞吉は文部編集の休職を命じられ、教科用図書調査委員を辞任する。さらに、東京帝国大学の講義「南北朝史」も文学部長の命により「吉野朝史」と改められた。ただし、明治天皇が北朝の天皇方に対する「尊崇の思召」から「尊号・御陵・御祭典等総て従来の侭たるべき旨を命じ給ふ」(『明治天皇紀』12巻)たので、宮内省では教科書の改訂以後も、南北両朝の取り扱いに軽重の区別を設けなかった(以上、小山常実『天皇機関説と国民教育』、池田智文「『南北朝正閏問題』再考」『日本史研究』など参照)。
「天皇機関説事件」と沖縄戦記述問題
「歴史上の問題を政府が政治的に決定してしまった」(立花隆「天皇『神格化』への道」『文藝春秋』平成11年6月号)この事件については、今日おもに、@国家権力による学問弾圧だった、A歴史の分野における学問と教育の分離をもたらした、という2つの観点から批判されている。この批判について、沖縄戦記述問題との関連で私の考えを述べてみたい。
まず@についてだが、桂首相は「学者の説は自在に任せ置く考えなり」(『原敬日記 第3巻』)と述べ、『大日本史料』でも南北朝並立の形式が維持され、さらに、改名を強いられた東大の講義においてもそれを担当した田中義成は、講義の冒頭において、まず「南北朝」という名称を用いることの正当性を史料に依拠して説明していた(この講義は大正11年に『南北朝時代史』と題して刊行されている)。したがって、この事件によって実証的な学問研究が不可能になったわけではない。しかし、それが社会の中での極一部の人々の知識に押し込められてしまったことは確かだろう。
A南北朝並立論が学問の領域に押し込められたのに対して、歴史教育や道徳(修身)教育の分野においては北朝抹殺的な南朝正統論が幅を利かせるようになった。このような事態は今日でも十分に起こり得る。教科書における「軍命令・強制」の復活は、政府による公認を意味し、歴史教育や人権・平和教育の分野では、それが事実として教えられ、それを否定すれば、「非国民」ならぬ、反人権・反平和主義者として無視されるか、袋叩きにあう可能性が高い。その意味で、南北朝並立論者・三上参次の次の言葉は、「道徳」とあるところを「人権・平和」に置き換えて読めば、今でも噛みしめてみるべきものだと思う。
「歴史を以て道徳を説くのは甚だ必要な事である。けれども其れは歴史上の事実を曲げざるに於ての事である。事実を知らず若しくは誤解し曲解して之に基いて道徳を説くやうなことがあつては、其れは一時に有力であるかも知れぬが必ず早晩其権威を失墜するのである」(「『時事新報』談話」)
「南北朝正閏問題」以後も、学問上の問題を政府が政治的に決定してしまう、つまり、「政治的正しさ」を学問的正しさよりも優先させるという事態はつづく。
昭和10年に起きた「天皇機関説事件」はその典型だろう。これは、それまで30年間にわたって問題なく認められてきた゛主権は法人たる国家に帰属し、天皇は主権の主体ではなくして、統治権を総攬する国家の機関である″とする東京帝国大学教授・美濃部達吉の憲法学説が、蓑田胸喜(みのだむねき)らを中心とした民間の国家主義団体によって「国体」に反するとして攻撃され、この運動が帝国議会や軍に波及したために、当初は「学者の議論に委して置くことが相当」(松田源治文部大臣)、「学者に委ねるより外仕方がない」(岡田啓介首相)との態度をとっていた政府が、結局は天皇機関説を否定して、天皇主権説を公認するところまで追い込まれてしまった事件である。経過は次の通りである。
@この問題が本格化するのは、昭和10年2月18日に貴族院で菊池武夫が美濃部攻撃の演説を行い、彼や蓑田が属する国体擁護連合会が美濃部らの公職からの追放と著書の発禁処分を求める決議文を文相と内相に手渡してからである。
A美濃部は2月25日の貴族院本会議で反批判の大演説を行い、日本古来の思想は「天下のための天皇統治」であったとし、その思想からすれば天皇の統治権を権能または権限だとする機関説は国体に合致しており、逆に、天皇一身の権利だと考える天皇主権説の方が国土国民を国王の財産だと考える西洋流の家産思想であって国体に反する、と逆襲した。これを聞いた菊池は一旦は納得し、貴族院での攻防は美濃部の勝利に帰した。ところが、美濃部の堂々たる主張が、かえって民間右翼と在郷軍人の情緒的反感を買ってしまい、天皇機関説問題は議会を超えて一挙に全国民的な問題となってしまった。
Bこの運動の過程では、美濃部をはじめとして天皇機関説論者とみなされた人々に対して、刑事告発やテロなど手段も使われた。
C衆議院では野党の政友会が機関説排撃の主体となり、治安維持法改正委員会において、天皇機関説に反対ではあっても政治関与には慎重であった軍部大臣に、機関説が「皇軍教育」に悪影響をもつことを無理矢理に同意させた。その結果、陸海両軍大臣が3月29日の閣議で、機関説に対する処置を要求するにいたった。
Dここでの政府の方針は、機関説そのものは禁止しないが、美濃部の著書を発禁処分によることによって、運動の沈静化を図ろうというものであった。ところが、4月9日に発禁処分が発表されると、学者自身あるいは大学の自己規制により、機関説を唱える学者たちが大学の講座から追放されたり、高等試験委員から外されるという事態が生じた。
Eこのような状態になってもまだ国体明徴運動は継続し、政友会を中心に政府に機関説排撃を明確にした声明を発することを求めるようになった。軍の内部事情もあって、陸海両軍大臣がそれを強く支持するようになったために、政府は声明を発せざるをえなくなった。
Fしかし、機関説排撃を明言するということは、次の段階として、政府内部にいる美濃部以外の機関説論者の処分をも強要され、内閣の崩壊に繋がりかねなかった。そこで、政府は、国体明徴に主眼をおき、機関説には言及せず、実際には存在しない架空の憲法学説を否定することにした。それが8月3日に岡田首相名で出された「国体明徴声明」である。そこでは「大日本帝国統治の大権は儼として天皇に存することは明かなり。若し夫れ統治権が天皇に存せずして天皇は之を行使する為の機関なりと為すが如きは是全く万邦無比なる我が国体の本義を愆るものなり」と書かれた。「統治権が天皇に存せず」などとは美濃部でも言わなかった議論である。
Gこの声明によって国体明徴運動は一旦は下火になりかけた。ところが、8月7日に美濃部が「声明」について「あれは大変結構です。私もあの声明には全然同意します。併しあれ丈け差障りのない声明をする迄には、随分苦心したでせうね」と発言したことから、これで矛を収めようとしていた陸海両軍大臣が美濃部の処分を要求する事態となってしまった。
Hこうして、美濃部の処分は不可避となってきたのだが、手荒なことをしたくない政府は、美濃部に貴族院議員を辞任してもらい、それを「謹慎」と見なすことで、美濃部が告発を受けていた出版法違反については起訴猶予とするという取引を美濃部に提案する。この取引は一旦は成立して美濃部は貴族院議員を辞職する。しかし、起訴猶予では犯罪を構成することを意味し、したがって、天皇機関説は公的に禁止されたのだと解釈されかねなかった。そこで、美濃部は声明を発して「くれぐれも申し上げますが、それは私の学説を翻すとか自分の著書の間違つていた事を認めるとかいふ問題ではなく」と弁明した。このことが三たび国体明徴派を刺激して、運動を激化させてしまった。
Iことここに至って、政府も腹をくくり、美濃部の学説だけは明確に否定して、しかも天皇主権説と融和的な他の機関説論者には累を及ぼさない声明を出すことにした。それが10月15日の「国体明徴声明」である。「抑々我国に於ける統治権の主体が天皇にましますことは我国体の本義にして帝国臣民の絶対不動の信念なり。帝国憲法の上諭並条章の精神亦茲に存するものと拝察す、然るに漫りに外国の事例学説を援いて我国体に擬し統治権の主体は天皇にましまさずして国家なりとし天皇は国家の機関なりとなすが如き所謂天皇機関説は神聖なる我国体に悖り其本義を愆るの甚だしきものにして、厳に芟除せざるべからず」
そして、国体について政府の立場を一層明確にするために昭和12年3月に『国体の本義』が文部省より刊行された。(以上の記述は、おもに小山常実『天皇機関説と国民教育』を参照)
この過程を追っていて見えてくるのは、学問的な正しさを主張する美濃部と、なんとか穏便に済ませたいと願う政府が、多数の情緒や感情、空気と対立してしまい、「政治的正しさ」の前に敗北していく姿である。ここには、我々が学ぶべき教訓が隠されているように思う。学説の正邪、適否を数や感情に基づいて政治的に決定するのは間違っている。しかし、他方で、その数や感情に学問的な正しさだけで、「そんな事実はない」「そんな論理は成り立たない」と立ち向かってみても、歯が立たないことがあるという歴史的体験もまた厳然として存在しているのである。
イデオロギーに扼殺され続ける史学
ところで、歴史事実や学説が、多数の情緒や感情、空気、あるいは「政治的正しさ」を根拠として、政府によって決められてしまった、歪められてしまったという事態は何も戦前に限った現象ではない。拠り所となる思想こそ違え、同じことが戦後でも繰り返し起きている。
昭和57年、文部省が高校用歴史教科書の検定で「侵略」を「進出」に書き換えさせたという誤った報道を新聞が一斉に行うという「誤報」事件が起きた。文部省はそのような事実の無いことを国会で繰り返し説明したが、マスコミも国民も聞く耳をもたなかった。中国と韓国が抗議してくると、宮沢喜一官房長官は近隣諸国との友好のために「政府の責任において是正する」と発表し、教科書検定基準に「近隣諸国条項」が追加されることになった。
昭和61年には「朝日新聞」の報道をきっかけとして、中国・韓国がすでに検定に合格していた高校用日本史教科書を批判するという事件がおきた。すると日本政府は、四次にわたって「超法規的修正」を執筆者に命じた。
平成4年、訪韓した宮沢首相は「慰安婦問題」で謝罪し、翌年には河野洋平官房長官が証拠もないのに「慰安婦の強制連行」を(暗に?)認める談話を発表し、この結果、平成8年の中学歴史教科書では7社すべてに「従軍慰安婦」の記事が登場することになった。
平成5年、細川首相は、それまでの「A級戦犯あるいは大東亜戦争に対する審判は歴史がいたすであろうというように、私は思います」(昭和54年、大平首相談話)との政府の立場を捨てて、先の大戦は「侵略戦争」であったとの判断を発表した。
平成7年には、当時の村山内閣が衆議院で侵略戦争史観に基づく終戦50年謝罪決議を強行し、「村山談話」を発表して、各国に謝罪文を送付した。また、この内閣で外相を務めていた河野洋平氏は、中国大陸に遺棄されている毒ガス弾などの化学兵器はすべて日本軍が遺してきたものだと根拠もないのに認めてしまい、平成9年発効の「化学兵器禁止条約」で日本はその処理を義務づけられ、1兆円超(平成17年6月12日付産経新聞)ともいわれる支出を強いられることになった。
かつて立花隆氏は、誕生間もない日本の歴史学について論じた文章の中で、当時活躍していた重野安繹(しげのやすつぐ)や久米邦武を高く評価した。重野については「修史家は露程も愛憎の心あるべからず」との彼の言葉を引用して、「歴史の史料を選ぶのに、イデオロギー的親近性や好悪の感情にとらわれてはならない。それをすると、必ず判断を誤る」「ただ事実のみを追求し、事実が発見されたら、筆を曲げずに、それをストレートに伝える(直筆する)こと。これこそ、歴史学において最も大切な大原則である」と解説してみせた(「東大国史科の児島高徳抹殺論」『文藝春秋』平成11年5月号)。
久米邦武については、「歴史は其時代で現出(でき)たる事を、実際の通りに記したるが良史なり、記者の意にて拵(こしらえ)直しては歴史の標準にならぬなり、其事実には善悪のあることもあり、なきこともあり、又善悪の分からぬこともある」との文章を引用して、「この論文は、今から見ると、当り前すぎるほど当り前のことしかいっていないが、それまでの歴史があまりに勧善懲悪のイデオロギーにかたまっていたので、これでも新鮮な見解だった。(中略)『大日本史』や『太平記』をはじめとする日本の往時の歴史書はすべて、勧善懲悪のイデオロギーによって貫かれており、そのイデオロギーの背骨が通っていれば、少々の史的事実関係ねじ曲げなど、平気で通っていたのである」(同)と評した。
このように立花氏は、イデオロギーによる事実の歪曲を遠い明治時代の話と捉えており、現在では、とうにそんなことはなくなっているという前提で論じていた。「そんなことはない。あなたの言っていることは、現在進行形のことですよ」と言いたくて、私は本誌に批判を書き、それが私の論壇デビューとなった(平成11年8月号)。その後で、自分の在住している三重県の中学校で、「日本人に内在する残虐性」を生徒に印象づけ、「細かい歴史的事実の相関関係よりも、日本が自国の利益のためにアジア、とりわけ朝鮮の人々に甚大な犠牲を強いたその身勝手さ、酷さが伝わればよい」と言い切る「人権学習」が行われていた事実を知った。
立花氏は重野や久米が筆禍をまねき、職をおわれたことをもって、「生まれたばかりの史学は、ここにほとんど扼殺されるがごときうきめを見たといってよい」と書いていた。そういう見方をしていた立花氏の目に、今の歴史問題、教科書問題は、どのように映っているのだろうか。日本にはまだ「史学」は誕生していないのか。史学や教育はまたまたイデオロギーによって扼殺の憂き目にあいつつあるのだろうか。