妖怪を斬る条件とは
『さくや妖怪伝』は、今からちょうど3世紀前の宝永4年(1707年)を舞台とする。江戸幕府の統治のもと、わが国は繁栄を謳歌していたが(「宝永」の1つ前の元号が「元禄」である)、世相には乱れも生じつつあった。
すると富士山がふいに噴火、悪しき妖怪たちが暴れ出す。他方、幕府の旗本には、妖怪退治を専門としてきた「榊家」なる一族がいた。榊家には妖怪を斬ることのできる唯一の刀「村正」が伝わっており、歴代の当主はこれを使って妖怪に立ち向かってきたのだ。
ところが魔性の刀たる村正は、妖怪を斬るたび、持ち主の命まで少しずつ奪ってしまう。それを防ぐには人間を斬り、刀身に生き血を吸わせるしかないにせよ、この方法はタブーとされていた。村正に自分の命を捧げると誓うのが、榊家の当主となる条件なのである。
主人公の美少女・榊咲夜(さくや)は、榊家当主・芳明の一人娘ながら、父が河童の大群と戦うさなか村正に命を吸い尽くされたのを受けて、刀を受け継ぐことになる。同時に彼女は、近くで河童の赤ん坊が泣いているのを見つけると、仇の子であるにもかかわらず、弟として引き取ることを決めた。「太郎」と名づけられた赤ん坊は、半年で10歳前後の少年に成長するけれども、性格的には気が弱く、おまけに泳ぐことさえできない
。
河童の一件の後も富士山の異変はやまず、妖怪の跳梁もつづく。憂慮した幕府は、咲夜に妖怪討伐の旅に出るよう命じた。同行するのは太郎のほか、護衛を務める2人の忍者、猿鬼(ましらぎ)と似烏(にがらす)である。江戸を発った咲夜たちは、いろいろな妖怪と出くわしつつ富士に向かっていった。
しかし敵の本拠に迫るにつれ、「妖怪退治の旅に、河童の太郎をなぜ連れてきたのか」という点が問題となる。じつのところ咲夜は、いずれ太郎を榊家の当主にするつもりでいたのだ。榊の家系は村正との盟約(=刀に命を捧げる誓い)によって成り立っており、血縁の有無は問題にならないのだという。さらに彼女は、妖怪退治を使命とする榊家の人間こそ、文字通り「その命を(妖怪の出歩く)夜に咲かせる」者であり、ゆえに人間界では最も妖怪に近いのだとも語った。
片や太郎のもとには、妖怪たちの支配者たる「土蜘蛛の女王」が姿を現す。男性的で厳格な咲夜とは対照的に、女王は母性的な優しさを漂わせ、妖怪世界の子守歌まで歌って、太郎を味方につけようと画策した。やがて女王と咲夜は対決するにしろ、すっかり動揺した太郎は戦いの最中、小刀で咲夜を刺してしまう。それでも彼女は恨もうとせず、好きな土地に行って幸福に暮らせと告げた。
女王は全長十数メートルに巨大化、咲夜たちの全滅をもくろむ。2人の忍者は「鬼転大筒」なる竹製の回転式迫撃砲で抵抗するも、あっさり吹き飛ばされてしまった。咲夜は村正を手にどうにか戦いつづけるものの、負傷しているせいもあって形勢は圧倒的に不利である。
だがここで、いったんは戦場から逃げ出した太郎が、自分の小刀につけられた鈴を見て咲夜への情愛にめざめる。その鈴は道中で出会った少女「はな」より、お守りとして渡されたものだった。はなは自分自身の弟からそれをもらったのだが、咲夜の小刀にも母の形見だという鈴がついていたのだ。
カナヅチだったはずの太郎は必死に川を泳いで戦場に戻り、地面に突き刺さっていた村正をつかんで自分の命を捧げると誓う。彼はさらに物見櫓に登ると、刀ごと女王の顔の上に飛び降りた。かくして女王は滅び、火を噴いていた富士山も元に戻る。そして姉弟の絆を確認した咲夜と太郎は、あらためてひしと抱きあうのだった。
『さくや妖怪伝』で興味深いのは、「人間=善、妖怪=悪」の図式と、「人間と妖怪の共存=善、どちらかの一方的優越=悪」の図式とが同居していることといえる。土蜘蛛の女王を倒すうえで鍵となったのは、河童の子たる太郎を咲夜が引き取っていたことなのだ。また咲夜は太郎にたいして、妖怪がみな悪さをするわけではなく、善良な妖怪も多いと教えるし、劇中には人間でありながら妖術を用いて悪事を働く者も登場する。
妖怪を斬ることのできる唯一の刀・村正が、そのたびに持ち主の命も奪ってしまい、これを防ぐには人間を斬って刀に生き血を吸わせるしかないという設定は関連して見逃せない。同作品において、妖怪を斬ることと人間を斬ることはイコールなのであり、だからこそ村正を手にした者は、自分の命を捧げる覚悟を持たねばならないのである。仇の子たる太郎を咲夜があえて弟にしたのも、人間と妖怪が本当は一蓮托生なのだとわきまえていたために違いない。
土蜘蛛の女王が「悪」なのも、たんに妖怪たちの支配者であるからではなく、人間にたいする妖怪の優位を確立しようと企てたからになろう。だがこうなると、妖怪にたいする人間の優位の確立をめざすのも、やはり悪ということになる。そして咲夜はいざ知らず、幕府は「妖怪を撲滅できればそれに越したことはない」と考えるに決まっている以上、人間側にも正義は存在しないのだ。
妖怪の暴れだしたのが宝永四年とされているのは、富士山が同年、実際に噴火したことに由来するのだろうが、「宝永」が「元禄」の直後にあたり(ちなみに広義の「元禄時代」は宝永年間までを含む)、かつこの時期にわが国の商業や文化が大きく発展したのを思うとき、なかなか意味深長な設定といえる。土蜘蛛の行動は、人間の文明が妖怪の世界を圧倒しはじめたことへの反乱だったのではないだろうか。映画の冒頭、咲夜の父・榊芳明と戦った河童の大群は、利根川の大堤防構築を妨害しようとしていたらしいが、これも「乱開発に反対する実力行使」と解釈できよう。治水が進めば進むほど、人間の支配する領域は拡大し、妖怪は住みかを追われるはめとなるのである。
家庭劇としての「さくや」
自分の命を延ばすためであれ、村正で人間を斬ってはならないとする家訓が榊家に存在すること自体、人間と妖怪が長らく平和に共存してきたことを立証する。妖怪が始終暴れていたとすれば、榊家の当主はどんどん命を落とすはめになり、家そのものが滅びるか、人間を斬ってでも妖怪退治をつづけるかという選択に直面せざるをえない。
現に咲夜の護衛を務めた2人の忍者・猿鬼と似烏は、旅の途中でかなり妖怪を斬った彼女が、土蜘蛛との決戦を前に衰弱してしまわないよう、宿場町の浪人たちに金をつかませ、わざわざ咲夜を襲わせた。身を守るべく浪人を返り討ちにすれば、それだけ村正に生き血が供給され、彼女は活力を得ることになる。代々の榊家当主が人間を斬らずにすんできたのは、元禄時代以前には妖怪を斬る必要がめったになかったからなのだ。
とはいえ『さくや妖怪伝』において、人間と妖怪の「一蓮托生性」を最も端的に打ち出しているのは、登場人物の性別をめぐる区分にほかならない。主人公の咲夜と、道中で太郎に鈴を渡す少女・はなを別とすれば、同作品に出てくる人間はすべて男性なのである。咲夜が若い娘なのを思えば、護衛を務めるのは「くノ一」、つまり女忍者でも良さそうなものの、猿鬼と似烏はそろって中年男に設定されていた。
逆に妖怪は、土蜘蛛の女王に率いられていることが示すとおり、「女性」のイメージが強い。富士への旅の途中、咲夜たちはまず化け猫に出くわすが、これはふだん老婆の姿をしていたし、他にも女郎蜘蛛をはじめ、般若、二面女(頭部の前後がどちらも顔)など、女の妖怪がかなり登場した。琵琶牧々(びわぼくぼく)(古くなった楽器の琵琶に手足の生えた妖怪)や、から傘お化けにしても、前者は明らかに女性が演じており、後者はプログラムで「性別は女らしい」と書かれている。
咲夜が自分のことを、人間界で最も妖怪に近い存在と規定するのは、この点でも筋が通っていよう(もう1人の少女・はなも、当初は妖術で人形に変えられており、その意味で人間ではなかった)。彼女が男性的に振る舞うのも納得のゆく話ながら、「人間=男、妖怪=女」とすれば、両者の協調の中にしか社会を保守する可能性はない。社会が望ましい状態に保たれるには、家庭が安定した形で築かれることが不可欠となるにしろ、これは男女の結びつきなしにはありえないためである。
ならば人間と妖怪の相違を越えて、咲夜と太郎が姉弟の絆を確認する結末は、保守の達成を表すものとなりそうだが、事はさほど単純ではない。すでに紹介したとおり、榊家の家系は「村正に命を捧げる」という誓いを立てるかどうかによって成り立っており、だからこそ血縁の欠如を無視して、妖怪を当主に迎えることも許されるのだ。つまり咲夜と太郎の関係は、「刀(=権力)との契約」という合理的な概念を基盤とするものであり、情愛は2次的な要素にすぎない。極端な話、村正への誓いを立てさえすれば、2人の仲そのものは悪くとも構わないはずではないか。
これが何を意味するかは、土蜘蛛が太郎を誘惑する際、彼を実の息子のごとくかわいがり、子守歌まで歌うことを踏まえれば明白となる。映画の文脈において、情愛は妖怪側の特徴となっているのだ。「愛」は非合理的な性格を強く持つ感情である以上、この分類は妥当だと評しえよう。だからというわけではないが、プログラムの記述によると、咲夜は太郎を引き取りこそしたけれども、育児にあたっては乳母を雇ったらしい。
土蜘蛛は太郎にたいし「咲夜を倒したら一緒に暮らそう」なる旨まで持ちかけるものの、こうなると『さくや妖怪伝』は、「家族は契約という合理性を基盤とすべきか、あるいは情愛という非合理性を基盤とすべきか」を主題とした家庭劇に見えてくる。そして作品には「人間=善、妖怪=悪」なる図式も盛りこまれているのだから(でなければ幕府の一員たる咲夜の正義も揺らいでしまう)、結局のところ肯定されるのは前者である。
けれども面白いのは、「合理性を基盤として家族を築くことはできない」点を認める描写も、劇中に頻出することであろう。太郎が咲夜を刺したとき、忍者の似烏は彼を斬ろうとするが(むろんこれは合理的な反応といえる)、咲夜は身をもってそれを制止、太郎の裏切りを許す。また太郎は、はなからもらったお守りの鈴を見て咲夜への情愛にめざめるにしろ、物語の中で鈴は「血縁」の象徴となっているのだ。はなの鈴は、もともと彼女の弟がくれたものであり、咲夜は母の形見だという鈴をつけている。さらに映画の前半には、咲夜の鈴と太郎の鈴が何度も交互にクローズアップされる場面まで挿入されていた。
すなわち咲夜と太郎の勝利には、「本当は非合理性(=情愛)を基盤とする関係を、合理性(=刀との契約)を基盤としているかのごとく見せかける」構造がひそむ。しかしこれは「実際には非合理が必要なのに、合理性のみで十分だと構える」ことにひとしい以上、合理性の名による非合理の抹消へと必然的に行き着こう。
『さくや妖怪伝』の内容に即していうなら、それは「人間による妖怪の絶滅計画」の開始を意味する。はたせるかな『跋扈妖怪伝 牙吉』は、同作品の正式な続編ではないにもかかわらず、この点を裏書きする内容となっていた。
安藤希の役柄の変化
『跋扈妖怪伝 牙吉』は、宝永4年(咲夜が土蜘蛛を倒した年なのに注意)を機に江戸幕府が妖怪討伐隊を結成、組織的な妖怪狩りを始めたというナレーションで幕を開ける。討伐の武器としては刀ではなく鉄砲が用いられ、妖怪たちは奥地に逃げのびるか、人間に化けて社会に適応するほかなかった。
物語の舞台となるのは、それから一世紀半ほどたった安政2年(1855年)である。この2年前には黒船が浦賀に来航、日本は近代化に向けた大きな変わり目を迎えていた。そんな中、近江の「百井藩」では、人間に化けた妖怪のボスである鬼蔵という人物が、藩の若き実力者・山路要之助と密約を取り交わす。鬼蔵はさる宿場町で賭博場を取りしきっていたのだが、お尋ね者をそこにおびき寄せて始末することで、山路の出世を支援してやろうというのだ。代わりに山路は、鬼蔵たちが安逸に暮らせる土地をいずれ提供することになっていた。
しかるにあるとき、牙吉なる浪人が鬼蔵のもとにやってくる。彼は名前のとおり妖怪(狼男)であり、「犬神村」なる集落の出だった。だが牙吉が人間と交わろうとしたせいで、犬神村は襲撃を受けて滅びるはめとなり、彼は裏切り者として追われながら諸国をさすらっていたのである。
牙吉を気に入った鬼蔵は、自分の一家に入るよう勧めた。「鬼蔵一家」の妖怪たちは、ヤクザっぽい物腰とは裏腹に、根は純朴な者が多く、誰もが鬼蔵を実父のごとく慕う。そのうえ宿場町には、人間でありながら親に捨てられ、妖怪の手で育てられた娘・桔梗もいた。彼女は鬼蔵の情婦であるものの、一家全体のマスコットとして可愛がられている。
だが山路は西洋風の回転式機関砲を開発したのをきっかけに、もはや鬼蔵の力に頼る必要はないと判断し、部下を連れて宿場町を襲撃、妖怪の虐殺を始めた。彼はもともと、鬼蔵に土地を提供するつもりなどなかったのだ。人間の卑劣さに激怒した牙吉は狼男の正体を現し、山路たちを全滅させる。
とはいえ鬼蔵一家で生き残ったのは、桔梗を別とすれば、まだ幼い妖怪の少年(たぶん天狗と思われる)だけであった。桔梗は少年を連れて安住の地を求める旅に立ち、牙吉もふたたび孤独なさすらいをつづけることになる。
筋立てが示すとおり『跋扈妖怪伝 牙吉』において、人間が妖怪を滅ぼすことは「合理主義が『家族』を滅ぼす」こととイコールである。人間の側にも家族を作ろうとする姿勢が見られた『さくや妖怪伝』とは異なり、この作品で家族は妖怪の側にしか存在しない。さらに原口監督は、人間の冷酷さを強調する一方、妖怪についてはその情愛深さを描きこむ。鬼蔵は桔梗を深く愛しており、山路の襲撃の際にも彼女をかばって殺されるのだ。桔梗を育てた妖怪夫婦も鬼蔵一家の仲間だが、育児の苦労を懐かしげに振り返っては、「よくここまで大きくなってくれた」なる旨を語った。
鬼蔵一家を襲うにあたり、山路が回転式機関砲を用いることも目を引く。なぜなら『さくや妖怪伝』でも、咲夜の護衛を務めた忍者が「鬼転大筒」なる竹製の回転式迫撃砲を使ったのだ。そして鬼転大筒が土蜘蛛にたいし通じなかったのとは対照的に、宿場町の妖怪は山路の機関砲によって次々と倒される。
元禄時代には未だ拮抗しえた人間と妖怪、ないし合理性と非合理の力関係は、150年後の幕末にいたって、完全に人間と合理性の側に傾いたのである。また劇中、山路はしばしば黒ずくめの衣装で登場するものの、『さくや妖怪伝』の忍者・似烏も黒ずくめだったので、彼らの共通性はこの点でも暗示されていた。
だとしても2つの映画をつなぐ最大の鍵は、咲夜を演じた安藤希が桔梗を演じていることにほかならない。人間界で最も妖怪に近い存在と自分自身を規定した咲夜は、妖怪世界で最も人間(界)に近い存在たる桔梗となって戻ってきたのである。『さくや妖怪伝』においても、彼女だけが「人間と妖怪の一蓮托生性」を自覚していたのを思うとき、この変化は必然的なものにすぎまい。同作品での言動から推測して、咲夜は幕府による組織的な妖怪狩りに猛反対したであろうし、きっと最後は村正を手に妖怪を守ろうとしたに違いないのだ。
『跋扈妖怪伝 牙吉』の結末、天狗の子を連れて旅に立つ桔梗の姿も、河童の子たる太郎を連れて旅をした咲夜を彷彿させる。けれども「咲夜」から「桔梗」へという役名の変化は、何とも象徴的ではないだろうか。文明の進歩とは「夜を真昼に近いものにする」ことなのだから、非合理にたいする合理性の優位が確立された後で「命を夜に咲かせる」ことはできない。人間界から妖怪世界に居場所を変えてなお、日中に咲く花の名を名乗るしかないのも無理からぬ話である。
非合理なくして家族なし
桔梗は劇中、鬼蔵一家が「ぱらいぞ」(キリシタン用語。英語の「パラダイス」にあたる)に行けるようにと、たえず祈りを捧げているが、この表現にも暗示的なものがあった。「ぱらいぞ」を「楽園」と解すれば、彼女の祈りは「妖怪が安逸に暮らせる土地が見つかるように」ということになる一方、「天国」と解するなら「地上にはもう妖怪の住みかがない」ことを意味する。物語の内容からいって、妥当な解釈は後者であろう。しかし『跋扈妖怪伝 牙吉』の世界では、妖怪だけが家族を作ろうとするのだから、これは「日本には家族の存在する余地がなくなった」というにひとしい。
社会の基盤たる家族は、闇や非合理など、われわれの慣れ親しんだ(近代的)合理主義の発想では否定的に扱われる要素なしには成り立たず、ゆえに自分の常識や価値基準をいったん捨て去る覚悟なしには、保守達成の一環としての「家族再生」など望めない−−原口監督の妖怪映画より引き出される洞察は、このようにまとめられよう。たとえば近年、家庭や青少年のからんだ凶悪犯罪が生じると、「心の闇」なる言葉がしばしば悪い意味合いで用いられる。だが本論前半で紹介したシャフツベリー卿の主張ではないものの、人間の心には誰しも闇があって当たり前ではないか。「心の闇」の存在を受け入れ、適度に発散させてゆくことこそ重要なのであり、闇をひたすら否定・抑圧しようと試みることは、土蜘蛛の反乱よろしく、かえって暴発を引き起こしかねない。
また「家族再生」を主張する者には、伝統的な育児の知恵が科学的な見地からも妥当である点を強調したり、「親学」なるものの体系的な樹立を唱えたりする傾向がうかがわれる。かかる傾向をいちがいに批判するつもりはないにしろ、それが「本質において非合理な要素を持たねばならないものを、合理的な形へと一元的に置きかえる」性格を有する点で、回り回って家族を否定する結果を招く危険性については指摘されるべきであろう。常識的にいって、非合理を「科学」にしようと試みたり、ましてマニュアル的に啓蒙しようとするのは、そのこと自体が矛盾をはらむ。
真の保守派とは、保守の達成にも限界があるとわきまえる者を指す。ならば家族再生を真に推進する条件は、「合理主義を捨てられないかぎり、家族はそうそう再生しない」と悟ることなのだ。この点に目をつぶり、方法論次第で家族がいくらでも再生するかのごとく構えるなら、結果はかえって自滅的なものになると思われる。「ぱらいぞ」は理屈で地上に築けるものではないのである。