「私は、日本のスパイだった」−。第二次大戦当時、日本の特務機関で反ソ連謀略活動を行っていた亡命ロシア人の元諜報員が、産経新聞のインタビューに応じ、90年に及ぶ波乱に満ちた人生について語った。「日本軍がいなかったら、東アジアは、ソ連のものとなっていただろう」「それをくい止めた日本は、誇りに思うべきだ」「北方領土占拠は、ロシアの汚点だ」…。老兵の口から出るのは、戦後60年以上が経った現在も日本擁護の言葉だった。終戦後、ソ連軍に捕まり、シベリアで強制労働など苦渋の人生を歩み、いまだに「国民の敵」である「日本の元スパイ」は、激動した日本とロシア(ソ連)の狭間でどのように生きのびたのか。
スターリンが死ねば…赤軍との戦い
モスクワの南東約400キロにあるタンボフ市。17世紀にタタール人の襲撃からモスクワを防衛するために築かれた要塞が起源という人口約30万の歴史ある小さな街だ。「日本のスパイ」だったウラジーミル・ゴリツォフ氏(90)は、この街はずれにある古びた灰色のアパートに妻ガリーナさん(78)と2人で暮らしていた。記者(内藤)が訪ねると、ゴリツォフ氏は、アパートの入り口で、「トオイトコロマデ、ヨクキテクレマシタ」と、日本語で出迎えてくれた。日本の特務機関諜報員だったころの日本名は「ゴトウ」。日本語を使うのは実に60年ぶりと興奮した様子だ。手元に分厚い露日辞典を用意していた。
そのゴリツォフ氏はロシア革命の前年の1916年、極東ウラジオストクでホテルやレストラン経営に携わる企業家の1人息子として生まれたが、ボリシェビキ革命政権による富裕層への弾圧が強まった1929年夏、中国人密輸商人の手引きでソ連を脱出し、お隣の満州に移民した。しかし、脱出する際に、母親だけがソ連当局に逮捕され、生き別れとなった。後に、再会を果たすことになるが、それは、皮肉なことにゴリツォフ氏が再びソ連で暮らすことになった後のことだった。
満州のハルビンにあったロシア人学校を卒業し東清鉄道(後の満州鉄道)などで働いた後、ゴリツォフ氏は、革命政権に反発していたほかの多くの満州在住白系ロシア移民とともに日本の特務機関に加わった。東京にも行き、訓練を受け、その後、対ソ連諜報・破壊工作を目的に創設された満州の浅野部隊で反ソ連工作に当たってきた。
「ウラジオストクでは、革命政権の軍人たちがわが家に度々押し入り、金品を物色しては強奪していった。それでも、父は我慢したが、親友が逮捕され『人民の敵』として銃殺刑にされたことを知り、ソ連からの脱出を決心した。私たちは、(ソ連の独裁者)スターリンが死ねば、ロシアがいずれ、その赤い鉄のくびきから解き放たれ、元の状態に戻るだろうと信じていた。だから、満州で日本の特務機関と協力して赤軍と戦ったのだ」
そう語るゴリツォフ氏は、ロシア語のラジオ放送や無線を傍受し、ソ連軍の脱走将兵から軍の配置などの情報を収集し日本語に翻訳する任務に当たっていたほか、国境を越え、ソ連で反革命運動の支援や扇動、反ソ連勢力への武器搬入も行った。夜の闇に乗じて、川を渡り、越境する際、銃撃を受けたこともあるという。
日本は、ロシア人からなる反ソ連工作部隊を編成した。その数は、約3,000人とも言われる。だが、それは、最後まで力を発揮することなく終わってしまった。
「ロシア革命は、当時の指導層が信じられぬほどの貧富の差を放置し、改革を怠ったことが、主要因の1つだったと思う。(帝政ロシアの提督)コルチャークや、(反革命軍の指導者)デニーキンといった指導者たちは、戦争が終わったら、土地改革を行うと言ったが、革命家でソ連建国の父レーニンは、いますぐやると言った。白軍のうち、6人の将軍と将校2万2000人が赤軍に寝返った。そうして、革命軍は、180万にまで勢力を拡大することができた。さらに、赤軍は、白軍と異なり、敵の捕虜となったら、釈放されてもスパイとして処刑した。赤軍の将兵は、最後まで戦うしかなかった。一方の白軍側は、デニーキンが、(帝政ロシアの拡張政策の尖兵となった)コサックの頭領だったクラスノフと常に対立していた。(コサック出身のシベリアにおける白軍指導者)セミョーノフも、コルチャーグと関係が悪く、力を結集するどころか協力して赤軍と戦える状況ではなかった」。皇帝派がバラバラな状況は、ソ連崩壊を主導したロシアの旧改革派が分裂し、影響力を失ってしまったロシアの現状とも不思議と似ている。
「危険な精神分裂症」装い生きのびる
ソ連が1945年8月に対日参戦すると、特務機関は解散し、関係する資料は燃やされた。日本軍は協力していた反革命派の白軍らロシア人たちを南の大連港に逃がそうとした。しかし、ゴリツォフ氏らを乗せた列車は途中、赤軍に止められ、同氏らロシア人たちは全員逮捕され、「日本のスパイ」としてモスクワに送られた。
「秋草俊少将(当時、関東軍情報部長)は、自分たちより私たち外国人をまず逃がそうとした。ソ連の赤軍に捕まったが、その場ですぐに銃殺されなかったのは、白軍の指導者たちが一緒だったため、日本の情報収集に役立つと思われたのかもしれない」。ゴリツォフ氏は、振り返る。
だが、生き残った同氏を待ち受けていたのは、ソ連保安当局の執拗な尋問だった。「私は、友人たちを裏切らなかった。すべてのことを話さなかったのだ。私を尋問した担当者が最後に言ったのは、『日本のスパイめ、くたばれ!』だった」。数十件にのぼるスパイ罪や、破壊活動の罪で、強制収容所(ラーゲリ)での強制労働の刑となった同氏は、酷寒のシベリアや極北の炭坑などを転々。栄養不足と重労働で脚気になり、ほかの流刑者と同様に、一時はダメかと思ったこともあったが、ラーゲリの医師に「危険な精神分裂症」との診断書を偽造してもらい、生きながらえた。「危険な精神分裂症の患者のまねをするのは、実際に難しかった。もう2度とやりたくはないよ」。
生き残ることができたのは、「生きるために必死だったこと。そして、助けてくれた人たちがいたからだ。ラーゲリの中で、私はいつも、友人をつくることができた。それが大きかった」と指摘した。日本軍の幹部が戦後、抑留されていたウラジーミルのラーゲリでは、先の秋草氏とも再会した。7年近く収容されていた炭坑ボログダでは、あまりの待遇の悪さに、ラーゲリの仲間たちと秘密裏に暴動を計画。ナイフ500本を作製して隠し、永久凍土に抜け穴も掘り、エストニア人やラトビア人らが米国大使館に連絡をする手はずを整えていたが、その直前にスターリンが死亡。実行には至らなかった。「もし、実行に移していたら、今、生きていたかどうか、わからない」。そう強調した。
スターリンの死で、ラーゲリからは解放されたが、それでも、「日本のスパイ」という重い過去の十字架は、就職の妨げだった。それでも、生き別れになっていた母親との再会を果たすという予期せぬ喜びもあった。30年近く前にゴリツォフ氏がソ連を脱出した際、当局に逮捕された母親はその後、「国民の敵」としてラーゲリで収容所生活を送り、先にラーゲリを出て、1人息子の消息を捜していたのだ。
ゴリツォフ氏は結局、母親がすでに住んでいた西シベリアのアルタイ地方にある人口約60万の中心都市バルナウルに落ち着いた。だが、なかなか就職はできない。就職できても、肉体労働などのきつい仕事ばかり。苦しい生活だった。しかし、同市で結婚したガリーナさんとの間に娘が生まれ、その娘が嫁いだ娘婿セルゲイさんの出身地で、比較的気候も過ごしやすいタンボフに引っ越した。それでも、いつも心の中にあるのは「日本」だった。娘や娘婿に、日本の話を聞かせる日々が続いた。「そんなユニークな人物がロシアにいることをぜひ日本人に伝え、何よりも、義父を喜ばせたい」と、娘婿が決心し、本紙モスクワ支局の連絡先を調べ、コンタクトをとってきたのだ。
日本はアジアのソ連化を食い止めた
元警察官のセルゲイさんは、結婚当初、シロビキ(武闘派)と呼ばれる権力機関のエリートコースである旧ソ連国家保安委員会(KGB)を目指していたが、義父の経歴を調べた上官が青い顔で「この経歴ではムリだ」と吐露したことから出世コースはあきらめ、弁護士となった。「国民の敵」は、娘婿の仕事にも大きな影響を与えた。だが、それでもお構いなしに、自らの信念を語る。たとえば、こんな具合だ。
「日本がなかったら、極東は完全にソ連化されていただろう。日本は、アジアのソ連化と戦った。日本はその事実を誇りに思うべきだ」「子供の頃、ウラジオストクで暮らしていたとき、ロシアで起きた革命に干渉するため派遣されてきた日本軍の兵士たち(シベリア出兵の兵士)は、ほかのどの国の兵士たちよりも秩序もモラルも高かった。酔っぱらった日本兵を見たことはある。1度だけ、映画館で日本兵が地元の若者と問題を起こしたとき、その上司とみられる日本兵が映画館に現れ、日本兵を取り押さえ、観客に謝っていたのを覚えている。それは、私たちには新鮮な驚きだった」…。
北方領土問題に至っては「4島は、いかなるときもロシアの領土となったことはない。ソ連が北方領土を占拠したのは歴史的な誤りであり、わが国最大の恥辱の歴史といっていい。神はいずれ、この恐れを知らぬロシアの行為に罰を下すだろう」と強調し、帝政ロシアは、探検家、アトラソフが1695年に極東のカムチャツカ半島に到達し、その後、ようやく日本と北方領土の存在について知ったことなど、日露の歴史を蕩々と語った。「私は、公の場で北方領土が日本領であることを堂々と証明したい。日本への北方領土返還こそがロシア最大の政治課題のひとつだ」と熱く語った。
「もし、日本が第二次世界大戦で、米国ではなく、ソ連を叩いていたら、歴史はどのようになっていたか」。そんなことにまで言及した。
この「日本礼賛」を、ロシア人の友人や隣人たちとの会合の席で、堂々と発言するため、娘や娘婿たちはいつもハラハラしている。敵と味方がはっきりとするからだ。あるとき、信頼していた友人に裏切られ、当局に密告されて「反ソ連的言動」を注意するよう厳しく警告された。終戦から半世紀以上を経たいまも、「ロシア国民の敵」とのレッテルを貼られたままだが、当局に名誉回復を求める気はない。信念を曲げたくはないからだという。しかし、一昨年の戦勝60周年には、なぜか、タンボフ市から退役軍人を称賛する記念メダルを贈られた。そのメダルを手にしたゴリツォフ氏は「ブラックユーモアかと思った」と笑い、こう言った。
「ウラジオストクで過ごした子供の頃は幸せだった。当時は、多くの日本人がウラジオストクで暮らしていた。私の同級生に『タニグチ・マサオ』という名の日本人がいた。彼の父は医者で、彼の家によく遊びに行った。あるとき、家族が日本語で話しているのに、彼はロシア語を話していたので、なぜかと尋ねると、『日本語では、おまえがわからないだろう』と答えた。マサオは、子供たちがけんかするとき、いつも弱い者の味方をしていた。日本のスパイとなったことを後悔はしていない。もし、もう1度、人生をやり直すことができるなら、私はまた日本とつながりたいと思っている」
ゴリツォフ氏は最後に、最近、書いた詩を記者にプレゼントしてくれた。その手書きの詩集には、北方領土問題に関するものもあったので1つ紹介したい。
クリール(北方領土を指す)の議論
昔々、クリールには、サムライが住んでいた
でも、なぜか、島々の発見者だと名乗らなかった
そこに現れたのが、イワンだった
霧がかかり、イワンは、クリールは自分が発見したと大声で言った
あなたは、どうも太陽、いや、富士山ですらも自分が発見したと言うのでしょう
そう日本人たちは、ロシアのイワンに切り返す
われらの開拓者イワン−これは、明らかな戯言だ
天は、われわれの偽りに罰を下すだろう
そう、最近、私はわかった
ルーシは、地の果てなき巨大な国である
他人の島を取り上げるのは罪だ
そう、私は思う
「日本のスパイ」だった老兵は、朝から3回の食事と休息を挟みながら、過去の記憶の糸をたぐりながら、記者の質問に答えた。ウオツカを飲み、夜行列車で到着した50歳近くも年下の記者に、「疲れたら休みましょう」と気を使うエネルギーはどこから来るのか。とても90歳にはみえなかった。日本の現代史の一ページを学ばせてもらったゴリツォフ氏とセルゲイさんに感謝したい。