月刊正論:7月号から  
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産経新聞社「月刊正論」からEISへの提供コラムです。
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   親に食われる若者たち  わが国に世代交代はあるか

  過去と現在のせめぎあいを超えてめざす関係とは (P294〜305)
 
評論家●さとう・けんじ 佐藤健志


(頁 前へ 1・2)
 

宮崎吾朗の自己去勢

『ゲド戦記』で特徴的なのは、父王を刺したことについて、アレンの主体性が繰り返し否定されている点である。アレン自身、自分がなぜそんな真似をしたのか理解できずにいるし、物語の後半における説明が正しければ、親殺しを企てたとき、彼は真の魂たる「光」の抜け落ちた、文字通りの心神喪失状態に陥っていた。しかもくだんの状態は、クモの画策によって世界の均衡が狂ったせいで生じたのだから、事件の真犯人はクモということになる。

 ところが幕切れ、アレンはテルーに向かって「ぼくは償いのためにも国に帰るよ」と語った。これはむろん「父王殺しについての裁きを受ける」ことを意味するものの、世界全体を救うのに少なからず貢献した人物が、かつて心神喪失状態で取った行動について責任を取らねばならないのは、どうにも理不尽ではないだろうか。常識的にいって、自由(意思)のないところに責任は生じえない。

 自由、ないし主体性は与えないまま、責任だけは負わせる描き方がなぜ成立するのか。これを理解する鍵は、あらゆる世代交代は年長世代の否定を伴うことにある。すなわち世代交代に際しては、どこまで即物的な形を取るかはともかく、何らかの親殺しが不可避的に生じるにしろ、『ゲド戦記』において親殺しは「正気の人間なら絶対にやらない大罪」と規定された。ならば若い世代は、ただ成長して大人になるだけで、世代交代をうながすという「狂気の大罪」を犯していることになろう。

 この作品には「若者は若者だというだけで罰せられて当然」とする、恐るべきメッセージがこめられている。アレンによる父王の刺殺は、かかる姿勢を正当化するための口実にすぎないのであり、何もしなくとも彼は裁かれる運命にあったのだ。論より証拠、『ロマンアルバム・ゲド戦記』の記事によると、企画の初期段階において、映画の冒頭場面は「狂った父王にアレンが殺されそうになり、命からがら旅に出る」設定になっていたが、鈴木敏夫によって「アレンが狂い、父王を殺して旅に出る」形に逆転させられたとのことであった。

 要するに鈴木は、「子殺しの美化・正当化」という映画の本質を、「主体性のない親殺し」を盛りこむことによって隠蔽したのである。かの満州事変さながら、相手側が先に攻撃したことにしておけば、制裁を加える大義名分が立とう。しかもアレンの親殺しには、まともな動機が存在しないのだから、「若い世代にもやむにやまれぬ事情があったのではないか」という点が浮かびあがることもない。

 宮崎吾朗が監督に選ばれたのも、こうなると新たな意味合いを帯びる。その場合、吾朗の行為には「父への挑戦」という含みが生まれるため、彼が映画を作ること自体が、劇中でのアレンの行為と重なるのだ。おまけに吾朗を抜擢すれば、「経験もないのに何だ」という批判が起きるのは確実なので、「若者は罰せられて当然」なるメッセージの説得力が強まる。先に紹介した発言を見ると、吾朗本人は「自分なら宮崎駿に自己主張できる」と思いこんでいたのかも知れないが、彼は踊らされたあげく自己去勢を強要されたといっても過言ではあるまい。

『ゲド戦記』が「若い世代を食い物にする」姿勢に貫かれていることは、他の点からも確認できる。まず挙げられるべきは、ヒロイン・テルーの描かれ方であろう。彼女はアレンと異なり、生命の尊さをはじめとする「望ましい価値観」の持ち主とされており、クモを倒すうえでも決定的な役割を果たす。だがテルーは親からさんざん虐待を受け、はては捨てられても黙ってこらえてきた少女ではないか。近年の宮崎駿作品に見られた「若者は年長の世代から何をされても耐えるべきだ」という主張は、しっかり踏襲されているのだ。

 また映像表現の点でも、『ゲド戦記』には宮崎駿作品を露骨に模倣した場面が続出した。もとより「何をやっても既成作品の模倣になる」のは、現在の映画全般に見られる特徴にしろ、父親殺しを重要な軸とする物語が、当の父親へのオマージュで埋めつくされたのは異様である。吾朗の自己主張は、やはりうわべだけのものだったと評さねばならない。

 とはいえきわめつきは、本年3月に行われた宮崎駿の新作『崖の上のポニョ』の製作発表で、鈴木敏夫が述べたコメントであろう。この作品は、5歳の男の子・宗介が、ポニョという人魚に出会うファンタジーとのことながら、鈴木は「宗介のモデルの1人は宮崎吾朗」なる旨を語り、「仕事を理由に、幼い息子とかかわることがなかったという自省が監督(=宮崎駿)の胸にある」とつけ足した。

 吾朗は1967年生まれなので、今年40歳になるにもかかわらず、5歳の幼児に引き戻されてしまったのである! スタジオジブリの寿命とて、この分では知れたものに違いない。世代交代が禁じられたところに、未来などありはしないのだ。

『夏音(かおん)』が示した可能性 もっとも昨年のわが国では、『ゲド戦記』が封切られるのとほぼ同時に、望ましい世代交代のあり方を模索し、未来への可能性を提起した映画も公開された。その作品とは、『夏音/わたしは、サンとキスするために生まれてきた』(IZAM監督)にほかならない。なおIZAM(イザム)は、ロックバンド「シャズナ」のリーダーとして知られた人物だが、宮崎吾朗同様、映画を手がけるのはこれがはじめてとなる。

『夏音』は現代の東京を舞台としており、米軍基地のある街・福生市で暮らす高校生の姿を描いている。主人公の北村讃(さん)は、何の夢や野心もないまま漠然と日々を送っていたが、あるとき自宅で古い8ミリ映画を見つけた。それは「親の形見の刀を持った娘が、閉塞して抑圧的な社会体制に立ち向かう」という自主作品だったものの、主役の少女の美しさもあって讃は共感をおぼえる。

 その直後、松本夏音という転校生が讃のクラスにやってきた。しかるに彼女の容貌は、例の8ミリに登場した少女と瓜二つとくる。一目惚れした讃は、夏音を主役に据えた映画を撮り、文化祭で上映しようと決めた。「河がゆっくり流れて海にたどりつくように、少しずつでも現実を変えてゆこう」なる意味をこめ、作品は『スロー・ダイブ』と名づけられるにしろ、基本的には自宅で見つけた8ミリのリメイクである。

 けれども仲間と撮影をつづけるうち、讃の叔父にあたる聖仁(せいじん)という人物が、何かにつけ邪魔をしてくる。ヤミ金融を営む聖仁は、世の中はカネがすべてだと公言してはばからず、讃をキャバクラになど連れてゆき、おのれの露悪的な価値観を吹きこもうと試みた。

 叔父の態度に讃が反発を強めると、聖仁は彼をさるカラオケスナックに案内する。くだんのスナックでは、夏音が看板娘として客の相手をさせられていた。店は夏音の継父が経営するものの、彼は聖仁から多額の金を借りており、彼女はそれを棒引きしてもらうかわりに聖仁に囲われるはめとなる。

 聖仁は讃にたいし、作っている映画のフィルムをよこせば夏音を自由にしてやろうと持ちかけた。讃は叔父の仕打ちに苦悩するも、やがて奇妙な事実が浮かびあがる。古い8ミリに映っていた少女は夏音の死んだ母親・優子であり、それを撮ったのは若き日の聖仁なのだ。理想家肌の映画青年だった彼は、優子と人生を切り開いてゆく希望に燃えていたにもかかわらず、やがて彼女に捨てられ、挫折感から裏社会に入りこんだのだった。

 讃はとうとう叔父の申し出に応じ、完成した映画と引き換えに夏音を救いだす。だが文化祭当日、夏音は聖仁のもとを訪れ、身を挺して映画を取り返そうとした。すると聖仁は何を思ったか、讃のフィルムを渡したうえ、わざわざ上映会場にやってくる。

 かくして映写は無事に始まるにせよ、しばらくすると観客はどんどん席を立ってしまう。じつのところ、問題の作品は人に見せられる出来ではなかったのである。「お前らの映画なんかこんなものだ。高校生に何ができる!」などと侮蔑され、カッとなった讃たちは聖仁に殴りかかるが、近くでパイ投げをしていたグループがその場に入りこんだせいで、乱闘騒ぎはドタバタの乱痴気騒ぎへとなしくずしに変わっていった。

 この1件をきっかけに、聖仁は夏音を囲うのをあきらめ、フィルムも讃の手に戻る。高校をやめた夏音は家も出て、自分だけの力で歩みはじめた。そして讃は、いつか彼女と再会できる日が来るのを信じつつ、文字通り「スロー・ダイブ」で頑張ろうと決意する。

『夏音』は、「大人」(=年長世代)が若い世代を食い物にしたがることを前提に、そんな大人にたいして全力で戦わないかぎり、若者もまた本当には成長できず、したがって未来への展望をつかみえないことを鮮烈に打ち出した作品といえる。たとえば夏音は、聖仁に囲われそうになる以前から、継父にこき使われたうえ、暴力まで振るわれていることになっており、彼のことをずばり「寄生虫」とまで形容した。実際、彼女は継父の借金のカタとして売られるハメに陥るのだから、これは『ゲド戦記』が美化しようと試みた「自由や主体性を与えないまま、若者に責任だけ負わせる」事例の最たるものであろう。

「かつて自分を捨てた女性の娘」を金で自由にしようとする聖仁の態度とて、年長世代の自己絶対化が「子殺し」を引き起こすことの見本である。彼は優子と映画作りの夢にひたった時期を、いつまでも「過去」にできずにいるのだ。しかも夏音の実の父が誰かという点は最後まで曖昧にされているため、聖仁の行動には近親相姦のニュアンスすら読みとれる。現に彼女は、讃によって救いだされるにあたり、皮肉をこめて「さようなら、お父さん」とつぶやいた。

 他方、讃が夏音に恋しており、だからこそ自主映画『スロー・ダイブ』を撮ろうとしているのを思えば、映画のフィルムと引き換えに彼女を自由にしてやろうという提案は「讃の試みた自己主張を、讃自身の手でつぶさせる」性格を持つ。取り引きに応じなければ、讃はみずから夏音をあきらめたことになるし、応じれば応じたで、せっかく作った映画を進んで手放さざるをえない。宮崎吾朗ではないが、讃もまた上の世代に自己去勢を迫られたのである。

 いわば『夏音』は、『ゲド戦記』の背後にひそむ構造を、ドラマの中で積極的に暴きだした作品と評せよう。このような視点を取るなら、「若者は年長の世代から何をされても耐えるべきだ」といった主張はむろん否定される。しかし『夏音』が優れているのは、年長世代の欺瞞を痛烈にえぐるかたわら、若者を安易に美化したり、過度に肯定することも回避している点にほかならない。

 讃の映画『スロー・ダイブ』は、彼にとっては「青春の記念碑」であり、きわめて重要な価値を持っているとしても、客観的に評価するかぎり「観るに耐えない稚拙な習作」にすぎないのだ。それどころか『スロー・ダイブ』は、かつて叔父が作った映画を焼き直した代物のうえ、主役を務める少女までがオリジナル版の主役の娘とくるのだから、聖仁の自己絶対化には讃もひそかに手を貸していることになる。

未来をつかむ条件は何か

 物語の中盤、夏音が継父に暴力を振るわれるのを目撃した讃は、「私はあなたに殴られるために生まれてきたんじゃない!」旨をきっぱり言ってやれと諭すものの、これを「主体的な自己主張ができなければ食い物にされても仕方ない」と解するなら、彼も他人のことを言えた立場ではなかろう。米軍基地のある福生市が映画の舞台に選ばれた点とて、戦後のわが国がアメリカにきっぱりした態度を取れずにいることを踏まえるとき、なかなか示唆的であった。

 だがこうなると、聖仁の行動をどう評価するかも微妙である。彼の持ちかけた取り引きは「本当に自己主張したいのなら、前の世代の模倣などやめろ」という意味合いを持つ点で、世代交代、ないし「親殺し」を暗にうながしているのだ。また聖仁が、口先の主張とは裏腹に「世の中はカネがすべて」なる価値観を持って"いない"ことは、夏音を手放してでも讃の映画を欲しがった点により証明される。当の映画にろくな値打ちがないことは、ほかならぬ聖仁が誰よりも良く知っているはずではないか。

 夏音を囲おうとしたこと自体、表面的には「自分を捨てた優子に復讐し、自己絶対化の欲望を満たす」ためのようだが、その根底には「死んだ恋人が残した娘を不幸な境遇より救いだしたい」という(無意識的な)願望もうかがわれる。讃が自分の8ミリ映画を観ていたと知ったとき、聖仁は「あんなもの、まだ残っていたのかよ」とつぶやくが、これも優子への愛情、もしくは若き日の理想主義が、内面に残っていたことへの感慨と解すべきであろう。この役を演じた加勢大周は、もろさや繊細さを物腰にさりげなく漂わせることで、聖仁が「心の傷を隠そうと偽悪的にふるまうロマンチスト」であることを巧みに表現していた。

 とはいえ聖仁にも純粋な理想家の顔がひそむのなら、讃にしたところで、場合によっては悪辣なヤミ金融業者になりかねまい。主体的な自己主張をなしとげ、未来をつかむための条件とは「自分が否定しようとしている年長世代に通じる要素が、自分の中にもある」と悟ることなのだ。かかる悟りに達したとき、あらゆる世代の立場は相対化され、円滑な世代交代が実現される。

 冒頭で紹介したゴダールの言葉「政治は過去と現在の両方に関わる形で成立する」にならえば、保守とは「過去と現在がせめぎあいつつ、そのせめぎあいを互いに超越しようとする」形で成り立つ。讃たちと聖仁の乱闘騒ぎが、パイ投げによってドタバタに変わってしまう『夏音』のクライマックスは、このような「せめぎあいの超越」を感覚的に表したものとなっていた。なにせ場面の終わりでは、讃や聖仁どころか、夏音まで顔を生クリームだらけにしてしまい、あまりのことにゲラゲラ笑いだすのである。

 初監督作品の常として、『夏音』には粗削りな点も散見され、構成面でも序盤を中心として多少ごたついている。また同作品は低予算で製作されたうえ、公開も小規模だったため、『ゲド戦記』のように多くの観客を集めたわけではない。ただしドラマの豊かさや、受け手に与える感動の深さでは、こちらの方が格段にまさっていた。

『ゲド戦記』は7月4日にDVDが発売されるものの、『夏音』も7月27日にDVD化される。ついてはぜひ両者を見比べて、わが国における世代交代のあり方に思いを馳せることを勧めたい。若者が年長世代とどう関わってゆくかは、社会の将来を左右する事柄であり、保守の成否とも密接に関連しているのだ。


評論家●
さとう・けんじ 佐藤健志

(略歴)
佐藤健志氏 昭和41年(1966)東京都生まれ。
東京大学教養学部卒。
平成元年、戯曲『ブロークン・ジャパニーズ』で文化庁舞台芸術創作奨励特別賞受賞。
著書に小説『チングー・韓国の友人』(新潮社)
評論集『ゴジラとヤマトとぼくらの民主主義』(文藝春秋)
『幻滅の時代の夜明け』(新潮社)『未来喪失』(東洋経済新報社)など。
今年、新著『リアリティ・ポップ』をNTT出版より刊行予定。


 
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