月刊正論:7月号から  
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産経新聞社「月刊正論」からEISへの提供コラムです。
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   統一地方選の深層を読む 「保守系」圧勝が示した民意とは

  知事選゛三勝二敗″の実態から見えてくる
安倍自民、小沢民主に共通の参院選勝利の方程式
(P122〜132)
 
評論家・拓殖大学日本文化研究所教授●えんどう・こういち 遠藤 浩一


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効力を失ひつつある「無党派」といふ擬装
 
 今回に限らず、地方選挙では候補者が政党と距離を置き、無党派を標榜する傾向が続いてきた。自分の思想傾向を韜晦することによつて、あるいは何かとイメージの悪い政党と距離を置くことによつて、より幅広く票を稼いでやらうといふのが、その企図するところであらう。

 東京でも、石原、浅野氏は、ともに当初、政党と距離を置く姿勢をとつてゐた。ところが選挙戦がヒート・アップするにともなつて――すなはちそれぞれに危機感が高じるにともなつて、石原氏は自民・公明両党との、対する浅野氏も民主・社民両党との連携を前面に押し出すやうになつていつた。要するに、選挙マシーンの存在を無視できなくなつたのである。

「無党派」を擬装することの目的は、石原氏にとつては中道・リベラル層の取り込み、浅野氏にとつては保守層取り込みにあつた。基礎票が強大な石原氏と比べて、浅野氏のはうが擬装効果に期待するものが大きかつた。

 ところが、いくら切羽詰まつたからといつて、土壇場で民主党や社民党との親近性を打ち出すのは、漂流者が海水を飲むやうなものである。見え透いた立候補要請集会(「浅野さんのハートに火をつける会」だとさ。ああ、恥ずかしい!)の頃から浅野氏の周辺には「プロ市民」がウロウロしてゐたし、その主張も、独自の政策の提示といふより、どちらかといへば石原氏の実績や提案に対する批判が多く、かつての社会党のやうなプレゼンテーション(反対のための反対)に終始した。浅野陣営の戦術は、石原氏と比較して劣る知名度を高めることだつたが、知名度が上がるにしたがつて、左翼リベラル臭も漂ふやうになつた。当然のことながら、保守無党派層は引く。焦つた候補者は、菅直人民主党元代表と並んで支持を訴へるといふ禁断の選択をする。その瞬間に保守票を吸収する資格を自ら放棄してしまつたのである。

 浅野氏のみならず旧左翼系候補者もしくは左翼にシンパシーを抱く候補者における「無党派」の標榜は、保守票を取り込むための擬装である。左翼系の政治家が生き残りをはかるとき、右に向かつてウイングを拡げる必要に迫られた。このとき、ある者は民主党に潜り込み、また別のある者は「無党派」を標榜した。浅野氏の場合は後者で、かつての宮城県知事選挙ではそれがうまくいつた。当時は「地方分権」とか「情報公開」とか、恰好良いことを言つてゐれば、尻尾を出さずにすんだ。

 しかし、今度は、さうはいかなかつた。なんといつても、東京と宮城では、都市の規模も質も違ふ。時代も変はつた。都市の経営者にとつて何より重要なのは財政や危機管理に対する鋭い感覚と、危機を乗り切り、都市に活力を与へる指導力である。「改革」と叫んでゐればなんとなく支持されるといふ(無能な政治屋にとつて)のと長閑かで幸福な時代は疾うに終はつてゐた。浅野氏は、東京といふ都市の規模と質からいつてても、時代の要請からいつても、候補者としてあまりにも――小さすぎた――のである。浅野氏のみならず、器の小さな政党や候補者が「無党派」を標榜したところで、それだけで選挙に勝てるほど、甘い時代ではなくなつてゐる。今回の東京都知事選挙は、その証明であつた。
 
政党の機能不全現象としての「脱政党化」
 
「中央の対立の構図を地方に持ち込むべきではない」とか、「中央と地方とでは選挙の事情が異なる」と、よく言はれる。したがつて地方選挙で候補者は無所属にならざるを得ないし、首長選挙が「相乗り」になるのもある程度やむを得ない――とも。その変奏が「脱政党化が進む」といふ解説である。尤もらしい議論だが、所詮中選挙区制時代の惰性を引きずつた発想でしかない。

 確かに、地方選挙では依然として無所属の候補者が少なくないし、首長選挙では与野党の相乗りもしくは民主党の不戦敗が目につく。今回の知事選では2県で相乗り、6県で民主党は候補者を擁立できなかつた。また1月に行はれた宮崎県知事選挙では既成政党と距離を置いた東国原英夫(そのまんま東)氏が政党推薦の官僚候補に圧勝した。かういふ状況を見る限り、「脱政党化」なる現象が進んでゐるやうにも見える。

 しかし、いま起こつてゐることは、政党(就中民主党)の機能不全現象であつて、政党の役割そのものが終焉に向かつてゐるわけではない。相乗りに甘んじたり候補者を擁立できない民主党に、あるいは地方議員の無所属標榜を放置する自民党には確かに深刻な問題はあるけれども、そのことがすなはち政党無用論を意味するわけではない。むしろ、今後は地方政治における2大政党化が進んでいくだらう。

 平成7年に衆議院選挙に小選挙区・比例代表並立制が導入されて以来、我が国の政治環境は一変した。2大政党制がいいかどうかの議論は措くとして、国権の最高機関の、しかも優越性を持つ衆議院の選挙制度が小選挙区制を中心とする選挙制度に変更され、2大政党化を余儀なくされてゐる以上、参議院、地方首長、地方議会も2大政党への集約を免れない。衆議院で優位に立つことを欲するならば、当然のことながら、その他の各級選挙においても勢力を拡大し、基盤を形成しなければならないからである。

 繰り返すが、これは是非を論ずべき問題ではなく、選挙制度改変による必然である。したがつて民主党の小沢一郎代表が「相乗り禁止」を打ち出したのは、たとへ掛け声だけであつたとしても、それ自体は当然の方針と言へる。問題は中選挙区制時代の談合体質から脱却し切れてゐない同党の地方組織が、首長選挙を闘ふことの意義を理解し切れてゐない点にある。地方選挙における2大政党化が時代の要請であるにもかかはらず「脱政党」なる現象が起こつてゐるのは、それに政党の側が対応し切れてゐないといふだけのことで、今後も続く趨勢とは、到底言へない。政党に生存本能がある以上「脱政党」に甘んじてゐるわけにはいかないからである。

 今回、首長選挙では依然として談合体質が幅を利かせてゐる反面、地方議会においては2大政党化が顕著になりつつある。都市部を中心として民主党所属の県会議員が激増してゐるのである。

 今回の県議選における各党の議席増減は次の通りであつた。
 
       議席数   前回比
  自民   1212    97減
  民主    375    170増
  公明    181     3増
  共産    100     7減
  社民    52     21減
  国民     1
  諸派    40     6減
  無所属  583    104減
 
 総じて各党が議席を減少させてゐる中で、民主党と公明党は議席増に成功してゐる。とりわけ民主党の伸びは注目に値する。議席全体としてはいまだ自民党の3割程度だが、これは現在の民主党の実力からすれば妥当なシェアと言へるだらう。神奈川県を見ると、ますますその傾向は明瞭である。
 
  自民 44↓36
  民主 22↓34
 
 開票時にすでに勢力が拮抗してゐるのみならず、会派結成時の多数派工作によつては民主党が第一党となる可能性もある。@自民党が議席を減らし、A無所属議員も減少する中で、B民主党所属議員が激増してゐることの意味は、地方議会における2大政党化が確実に始まつてゐることを意味する。

 しかも先に見たやうに、民主党が強い地域では、民主党であつてもリベラルではなく、保守系の候補者が圧倒してゐる。すなはち地方議会における2大政党化(民主党の躍進)と、民主党が保守政党に脱皮することとは不可分の関係にあるわけだ。
 
理念・政策における混乱
 
 選挙制度改変にともなふ政治状況の変化に政党が対応し切れてゐないといふ問題の中核に位置するのは、やはり、理念・政策における混乱と言はなければならない。各級選挙で、民主党が本気で勝ちに行きたいのならば、保守政党としてのアイデンティティを確立すること、反日的体質を克服することが必須の条件となる。今回の地方選挙では、そのことが明確に証明されたと言へる。その作業を怠つたまま、一時の風頼みで選挙に臨んだところで、せいぜい東京で浅野史郎氏が獲得した3割の得票が上限、過半数を得るのは絶望的である。すなはち、かつての社会党同様、万年野党の座に甘んじ続けることになるわけだ。

 今日の民主党の危機はここにある。特に比例代表選挙の負の側面によるものなのだが、政権を獲得することが困難である一方、比例救済によつて壊滅的減少も避けられるといふ状況が続くと、現職議員を中心に、自分の議席さへ維持できれば、まあいいぢやないかといふ怠惰な空気が蔓延するやうになる。政権獲得のためには左翼リベラルとの関係清算が不可欠の条件とはいつても、そこには一定のリスクがある。選挙マシーンとしての官公労と手を切るのはやはり不安である。自民党がミスを犯してくれれば、敵失によつて思はぬ議席増もありうる。下手に冒険するよりは、最低限現在の議席が維持できるのであるならば、そちらのはうがいいではないかとの判断に傾く。

 実際民主党が左派との関係を清算できない最大の理由は、そこにある。かくして、口では「政権獲得」を叫びつつ、その実3割程度の議席確保で満足する政党であり続けることとなるのである。つまらぬ問題で安倍総理を攻撃し、しかも攻めあぐねてゐるのも、このあたりに理由がある。つまり、民主党の存在は、名前を変えただけの、「日本社会党」の復活にすぎないといふことである。

 民主党がこの為体であり続ける限り、自民党は安泰だらう。

 しかし自民党もまた民主党同様、「敵失」によつて安泰を維持する政党になりはててゐる。つまり自民党が安泰を維持できるかどうかは自ら決定できることではなく、民主党次第といふことになる。民主党が本気になつて保守政党へと脱皮し、政権獲得への意志をぎらつかせたとき、自民党は深刻な危機を迎へるのである。

 その意味で、安倍総理が憲法改正を参院選の争点にしたい旨の意思表明をしてゐるのは、意に反して危険な賭になる可能性がある。自民党の新憲法草案は、現行憲法の歪みを拡大し、固定化するだけのもので、改憲の名に値しない。この草案を争点に掲げたところで、「美しい国」の再建に寄与することはない。むしろ醜悪な戦後を継続するだけである。

 もし、民主党が自民党よりマシな憲法改正案を提示したならば、両党をとりまく条件は一瞬のうちに逆転してしまふだらう。試みに以下の2つを読み比べていただきたい。
 

 

A 日本国民は、自らの意思と決意に基づき、主権者として、ここに新しい憲法を制定する。
 ――象徴天皇制――は、これを――維持――する。また、国民主権と民主主義、自由主義と基本的人権の尊重及び――平和主義――と国際協調主義の基本原則は、不変の価値として継承する。

 日本国民は、帰属する国や社会を愛情と責任感と気概をもって自ら支え守る責務を共有し、自由かつ公正で活力ある社会の発展と国民福祉の充実を図り、教育の振興と文化の創造及び地方自治の発展を重視する。

 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に願い、他国とともにその実現のため、協力し合う。国際社会において、価値観の多様性を認めつつ、圧政や人権侵害を根絶させるため、不断の努力を行う。

 日本国民は、自然との共生を信条に、自国のみならずかけがえのない地球の環境を守るため、力を尽くす。(前文)
 
B 日本国民は、わが国と国際社会の平和および繁栄を念願し、この新しい憲法の制定にあたり、ここに決意を宣言する。

 一、――日本国民は、悠久の歴史を通じて、豊かな伝統と独自の文化をつくり上げてきた。われらは、これを継承発展させ、自立と共生の精神に基づく友愛の気風に満ちた国づくりを進める――。

 一、日本国民は、――立憲主義の理念と伝統――を受け継ぎ、基本的人権尊重の原則に基づいて、自由で民主的な国家を築いてきた。われらは、この礎の上に、国民の福祉を増進し、活力ある公正な社会の建設に努める。

 一、日本国民は、美しい国土と豊かな自然のなかで、大自然の営みを畏れ敬い、これと共に生きる心を育んできた。われらは、これを後世に伝えるとともに、地球規模で自然との共生の確保に努める。

 一、日本国民は、――古来、和の精神に基づき、異文化の摂取および他国との協和に努めてきた――。われらは、平和を愛する諸国民と手を携え、国際平和の維持に積極的に寄与し、尊厳ある国づくりを進める。

 一、日本国民は、変化に富む列島の気候風土のもと、個性あふれる地域文化を心の拠り所としてきた。われらは、地域社会の自治と自立を尊重し、多様性と創造力に富む国づくりを進める。

 われらは、国家と国民の名誉にかけ、この崇高な理想と目的を達成することを誓う。(同)


 Aでは「天皇制」は「維持」されるものと規定され(すなはち国民の意思によつてどうにでもなるといふ傲慢な規定である)、国民主権や基本的人権が謳はれ、現行憲法にさへ見当たらない「平和主義」といふ観念的用語が明記されてゐる。全体にごつごつした文章で、田舎の小役人が鉛筆嘗め嘗め起草したやうな、まあ悪文の類である。

 Bも基本的人権を強調する点では同じだが、Aと明らかに異なるのは、わが国の国柄を素直に受け入れる姿勢(日本国民は、悠久の歴史を通じて、豊かな伝統と独自の文化をつくり上げてきた)と、将来への国家目標(われらは、これを継承発展させ、自立と共生の精神に基づく友愛の気風に満ちた国づくりを進める)を並立させてゐる点である。日本の伝統的精神と国際協調が矛盾しないことを訴へ、「立憲主義の理念と伝統」といふ絶妙な表現によつて、わが国の民主主義が帝国憲法以来の伝統であることを表現してゐる。天皇に関しても第六条で「世襲のものである」と明記し、Aのやうな不遜な態度は見あたらない。また、文章も、粗つぽいところが散見されるものの、格調の高さにおいてはAとは比較にならない。

「美しい国へ」と謳ふ安倍総理率ゐる自民党の草案としてより相応しいのは、当然Bといふことになる。しかし現実の自民党草案は進歩主義的悪臭が強く漂ふAであり、Bは創憲会議(旧民社党系)によるものである。もつとも、系譜としては民主党に連なるとはいへ、創憲会議案と民主党の草案とは懸け離れた内容だし、現状では民主党が創憲案を自らの憲法草案にするとは考へにくい。しかし同党がコペルニクス的転回を遂げて、かういふ案を掲げるやうな政党に脱皮したならば、自民党にとつては真に強力なライヴァルの出現となり、その安泰は瓦礫のごとく崩れ去るだらう。民主党が自民党を攻めるポイントはここなのである。

 逆に言へば、自民党が現在の草案で参院選を戦ふのは無謀である。自民、民主両党とも、参院選で勝ちたければ「保守」に脱皮しなければならないのだが(それはこの地方選ではつきりした、双方とも見当違ひの方向を向いてゐる。判断ミスを重ねた政党が自滅したつて一向にかまはない――と言ひたいところだけれども、政党の不在は政治の崩壊に直結する。特に政権政党たる自民党には、一刻も早く正気を取り戻す責任がある。


評論家・拓殖大学日本文化研究所教授
●えんどう・こういち 遠藤 浩一  

(略歴)
遠藤浩一氏 昭和33年(1958年)石川県金沢市生まれ。
駒澤大学法学部卒業。
民社党広報部長などを経て拓殖大学日本文化研究所教授。
著書に『消費される権力者』(中央公論新社)
『日本論U−政策と文化の融合』(共著、中央大学出版部)
『石原慎太郎「総理」を検証する』(共著、小学館)
『小澤征爾 日本人と西洋音楽』(PHP新書)などがある。

 

 
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