統一地方選のさなかに、立候補してゐる現職市長が銃殺されるといふ事件は、銃刀類の所持が厳しく規制され、諸外国と比べて比較的治安が良好とされるわが国においてはきはめて衝撃的な出来事であつたし、しかも、前市長も銃撃された長崎で再び起こつた事件とあつては、マス・メディアが色めき立つのも当然であつた。事件そのものは、金銭に窮した犯人の逆恨みによるもので、思想的、政治的背景について云々するほどのことではないが、これに対する政界やマス・メディアの反応に、見逃せない政治的意味が含まれてゐる。
被害者が政治家であらうと言論人であらうと、また一市民であらうと、暴力をもつて口を封じたり、生命を奪ふといつた行為は、法治国家にあつては断じて許されるものではなく、犯人は厳罰をもつて処せられなければならない。メディアには、事件の背景について詳細に調査し報道する責務があるし、選挙期間中に、選挙事務所の前で、立候補者が狙撃されるといふ事態に対して、議会制民主主義のもとで統治を委任されてゐる政治家が「民主主義に対する挑戦である」と、怒りをあらはにしてみせるのも、職業上当然の表現行為と言へよう。
さはさりながら、この事件に対する政治家やマス・メディアの反応は、いささか浮き足立つてゐるし、見当違ひのものが多い。
全国知事会長を務める麻生渡福岡県知事は「痛恨の極みとはこのことだ。市長に対する銃撃は、極めて卑劣かつ許すことができないテロ。厳しく糾弾しなければならない」(18日)と、テロの実行者を痛烈に非難した。卑劣なテロ行為及びそのものが糾弾の対象でなければならないのは当然であり、テロの実行者に向けて怒りを示すのはいい。しかし、県知事といへば県警察本部の統括者であり自治体における治安維持の最高責任者にあたる。さういふ立場にある知事職の束ね役を務める人が、「痛恨の極み」と悔しがるだけですむのだらうか。
政治とは他者の領分に介入し、その利害を調整する職務である。それは利益の分配であるとともに、不満の分配でもある。とするならば、政治家たる者、不満を抱く者からはしばしば憎悪の対象にならざるを得ず、時として殺意を抱かれることだつてあるだらう。つまり、地方議員であれ首長であれ国会議員であれ、命懸けの仕事、といふことになる。さうであるならば、危険と隣り合はせの職務者の安全をいかに確保するかについて、治安維持の最高責任者として一言あつてしかるべきではないか。「痛恨の極み」などといふことは、われわれ口舌の徒にだつて言へることである。テロリストに対する糾弾を具体的にどうするのか、県知事として何ができるのか、国にどういふ働きかけをするのかといつたことが、「全国知事会長」の発言に期待される要諦ではないのか。
もつとも、麻生知事の発言は、余計なことを言つてゐない分、まだいい。首を捻らざるをえないのは、全国市長会長の山出保金沢市長による次の発言であつた。
「余りにもむごく、あつてはならないことで強い憤りを覚える。――地方分権の推進に尽力され、核廃絶による世界平和を訴へ続けてをられただけに誠に痛恨の極みだ――」(同日)
こちらも「痛恨の極み」だが、麻生知事より質(たち)が悪いのは、「地方分権」だの「核廃絶」だのと、余計なことを付け加へてゐるところである。それにしても、この人はいつたい何が言ひたいのか? まさか、核廃絶を訴へたから殺された、と言つてゐるのではあるまい。おそらく、「地方分権」やら「核廃絶」を訴へてゐた人物が射殺されたのはけしからんと言ひたいのだらう。されば、私は、山出といふ市長に、真剣に問ひたいと思ふ。仮に、地方分権の行き過ぎに警告を発し、平和のためには日本も核武装が必要だと訴へる政治家がゐたとして、彼が反対者から殺害されるといふ事件が起こつた場合、あなたは、どうコメントするおつもりか。「――地方分権に異を唱へ、核武装推進を訴へてをられただけに――誠に痛恨の極みだ」と、ちやんと言へるのか。言へまい。あなたは、ある空気に迎合してゐるだけなのだから。
市長銃撃事件報道の混乱が意味するのは何か
何度でも言ふが、政治家が凶弾に倒れる事態は痛恨の極みであり、厳しく糾弾されなければならない。が、そのことと、その人物が何を主張し、実行してゐたか(しようとしてゐたか)は分別されなければならない。ある考へ方についてのテロは許されないが、別の議論に対するテロは不問に付すといふことにはならない筈である。主張の如何にかかはらず、政治家へのテロを許さないといふのが民主主義を建前とする法治国家の大原則であつて、全国市長会長としてコメントする際に、そこに特定の主張を織り込むのは僭越であり、不埒であり、卑屈である。
山出市長が迎合する――ある空気――を醸成するのは、言ふまでもなく『朝日』をはじめとするマス・メディアである。市長襲撃の第一報が報じられた4月17日夜の各局ニュースは、濃淡の差こそあれ、いはゆる「天皇の戦争責任」発言で銃撃された本島等前市長のケースと関連づけて報じてゐた。中でもTBSが最も露骨な誘導ぶりであつた。しかし、翌朝の『朝日新聞』を一瞥したならば、筑紫哲也キャスター、自分のところも、もつと吠えまくればよかつたと臍を咬んだことだらう。
『朝日』は18日の社説で、伊藤一長市長が「被爆地ナガサキの市長として核廃絶運動の先頭に立ち続けてきた」ことを強調し、ことさらに本島市長銃撃事件を持ち出して2つの事件を関連づけ、「容疑者の動機がなんであれ、反核運動が萎縮するのではないかと心配だ。反核運動に携わる人々はひるむことなく、発言を続けることが、伊藤市長への激励となる」(18日付)と、強引に反核運動への影響を心配してみせる。言ひも言ったり、である。
山出金沢市長が恭順したのは、この文脈であつた。核廃絶を進めた政治家が襲撃されるのはけしからぬ――といふ、よく考へればきはめて一方的で胡乱な空気がメディアを支配してゐて、政治家はいつの間にかそれに迎合する習性が身に付いてゐるといふわけである。
核廃絶運動に対するテロだ、民主主義への挑戦だと拳を振り上げてみたものの、時日の経過とともに、この事件の背景は思想的なものではなく、公共工事を資金源にしてゐた容疑者が入札制度改革によつて金銭的に追ひ込まれたのが動機であることが分かつてくる。各メディアは振り上げた拳の下ろし方に困り始め、挙げ句の果てに、見当違ひの方向に矛先を向け始めるのであつた。
安倍晋三総理は、事件の第一報を受けて「捜査当局で厳正に捜査が行はれ、真相が究明されることを望む」とのコメントを発表した。事件発生直後のこととて、経緯が判明する以前の段階としては、かう述べるのが精一杯だらう。ところが、『朝日』は、これに対して「ひとごとのような言葉からは、怒りが感じられなかった」(19日付)と噛み付くのである。テレビ朝日の「報道ステーション」でも、コメンテーターを務める加藤千洋『朝日』編集委員が同様のことを発言してゐた(18日)。加藤氏を含めた朝日新聞社が全社一丸となって怒ってゐるのは「核廃絶運動の強化などを公約した伊藤氏から政治活動の機会を奪い、伊藤氏を支持する有権者から選択肢を奪った」(同)ことに対してである。安倍総理に文句を付けてゐるのは、総理が自分と同じ怒りを共有してゐないと判断したからである。
困つた新聞である。加藤紘一自民党元幹事長の地元事務所が放火された際も、小泉純一郎総理(当時)に向かつて、怒り方が足りないと文句を付けてゐたが、そもそも『朝日』にテロ――すなはち暴力でもつて我を通す行為を糾弾する資格があるだらうか。2年前、中国で「デモ」といふ名の暴動が起こつて、我が国の外交公館や日系企業が襲撃されたとき、この新聞は、中国共産党の主張そのままに「悪いのは小泉総理の靖国神社参拝だ」とのキャンペーンを展開して、「愛国無罪」なる、目的のためなら暴力も許されるといふ屁理屈を肯(うべな)ってみせた。すなはち『朝日』はテロそのものに対して怒りをぶつけてゐるわけではなく、特定の目的(核廃絶運動)の推進者であつた伊藤市長が凶弾に倒れたことが許せないのである。かういふ物言ひを、御都合主義といふ。
今回の『朝日』の社説は、二重の意味で見当違ひと言はなければならない。
第1に、伊藤市長への銃撃は金銭問題への不満を動機とするものであつて、「核廃絶」云々とは無関係である。無縁な2つの点をむりやり結びつけるのは、為にする誘導以外の何者でもない。
第2に、安倍総理のコメントに関する不満は主観的なもので、そもそも社説で取り上げるやうな問題ではない。もつとも筆者にしても、実は、総理のコメントに対して物足りなく思つたのだが、それは犯行への「怒り」が感じられなかつたからではない。総理が示すべきは犯人への感情的反発ではなく、事件への具体的対応である。この機会に、総理として治安維持に向けた法改正をいかに進めるかといつた示唆があればもつとよかつたけれども、初期段階では「厳正な捜査」及び「真相の究明」を求めるだけで十分だらう。むしろ、この手の為にする難癖に反応して「選挙期間中の凶行は民主主義に対する挑戦であり、断じて許すわけにはいかない」(18日)などと、押つ取り刀で付け加へるはうが、みつともなかつた。
有権者が問ふたのは候補者の覚悟
さて、ここからが本題である。
統一地方選のさなかに起こつたこの銃撃事件は、わが国の政治及びそれをとりまく空気について考察する上で、かなり示唆的なものを含んでゐる。
第1に、政治といふものは中央、地方を問はず、常に危険と隣り合はせの仕事であることを改めて印象づけたこと。つまり、それだけ覚悟を求められる職務なのであり、有権者としても、政党や政治家にその覚悟があるのかどうかを見極める必要に迫られてゐるのである。
第2に、野党や反政府系メディアは安倍総理を攻めあぐねてゐることが浮き彫りとなつた。攻撃する材料がなかなか見当たらないから、数ヶ月前には閣僚の詰まらぬ失言問題で騒ぎ立て、今度は「銃撃事件に対する怒りが感じられない」といつた見当違ひの文句を付けるといふ為体(ていたらく)になつてゐる。
第3に、かういつたことどもは、事件が起こる以前の統一地方選挙前半戦の結果に、すでに端的にあらはれてゐることだ。すなはち、野党は安倍総理を攻めあぐねた。そして有権者は与野党を問はず候補者の覚悟を見極めようとした。その結果が、選挙結果にはつきりとあらはれたのである。
4月8日に投開票が行はれた統一地方選挙前半戦では、東京など13の知事選、札幌など4政令市長選、44の道府県議選、15政令市議選が行はれた。とりわけ注目されたのは東京など自民党系と民主党系の候補者が渡り合つた5つの知事選挙であつた。その結果は、自民3勝(北海道・東京・福岡)に対して民主2勝(岩手・神奈川)といふものだつた。「3対2」といへば、与野党いい勝負といふ印象だが、その内実は、決して保守の自民党に対してリベラルの民主党が迫つてゐるといふものではなかつた。
民主党が勝利したのは岩手と神奈川である。
達増拓也(岩手)
454,135票(60.8%)
松沢成文(神奈川)
2,008,335票(62.8%)
いづれも得票率60%強なのだから、堂々たる勝利である。ただしこれは、「リベラル」が「保守」に圧勝したといふことではない。達増、松沢氏とも民主党にあつては保守系の政治家であり、さらに言ふならば、岩手、神奈川ともに、もともと民主党が強固な地盤を持つ地域である。それは候補者や政党が保守・中道系食ひ込んでゐるといふことにほかならない。すなはち、民主党及びその系列の候補者にとつては、地方に基盤を構築するにしても、また、選挙で勝利するにしても、保守・中道系に足場を築き、彼らに食ひ込んでいくことが必須の条件なのである。今回の選挙でも保守色の強い候補者は、――民主党系でありながら――圧勝した。
逆に、左翼・リベラル色が色濃く滲み出た東京の浅野史郎氏のやうな候補者は、得票率3割に届くのがやつとだつた。
石原慎太郎
2,811,486(51.1%)
浅野 史郎
1,693,323(30.8%)
また、神奈川など都市部においては県議選でも民主党系が大きく議席を伸ばしてゐるが、特に神奈川の場合はもともと保守・中道系の候補者が多数を占めてゐたこととともに、旧社会党や神奈川ネットなど左翼系から出た候補者にしたところで、保守層に受ける松沢知事の看板を最大限に活用し、自らの出自を巧妙に隠す戦術が奏功したことによる。
つまり、総じて言へることは「左翼リベラル」を前面に出した候補者は壊滅的敗北を喫し、「保守・中道」系もしくはそれを僭称した候補者が勝利したといふのが、今回の選挙の決定的傾向だつた、ということである。「3対2」の内実は「保守の圧勝、左翼リベラルの壊滅的敗北」であつた。