承前。再び集団的自衛権問題を取り上げる。安倍晋三首相は3月7日、内閣記者会(いわゆる記者クラブ)のインタビューに応じ、「集団的自衛権の研究」に関して「国民を守る大きな責任がある中で、そんなに時間をかけるべきでない」と早急に結論を得る考えを示した。
果たして安倍内閣は、いかなる結論を出すのであろうか。大方の予想はつく。安倍内閣の研究課題は「いかなる場合が憲法で禁止されている集団的自衛権の行使に該当するのか」(施政方針演説)である。それを「個別具体的な類型に即し、研究」する(同前)。
つまり「集団的自衛権行使が憲法で禁止されている」との解釈自体は変更しない。「個別具体的な類型に即し」、これは集団的自衛権行使に当たらないと強弁できる具体的なケースを個別に模索するだけである(前号参照)。
安倍晋三代議士はベストセラー『美しい国へ』(文春新書)で、「日本が集団的自衛権を行使できない。このことが何を意味するか」と問題提起した上で、こう続けた。
「日本の周辺国有事のさいに出動した米軍の兵士が、公海上で遭難し、自衛隊がかれらの救助にあたっているとき、敵から攻撃を受けたら、自衛隊はその場から立ち去らなければならないのである。たとえその米兵が邦人救助の任務にあたっていたとしても、である」
おっしゃる通り。ゆえに今1度、問う。その場合、安倍内閣はどうするのか。
憲法(解釈)を守るのか、それとも遭難した米軍兵士の命を守るのか。
後者を選び、首相として「これは集団的自衛権行使に当たらない」と強弁することは許されない。なぜなら、自分の本で、自分が挙げた具体例だからである。もし安倍首相が「個別具体的な類型に即し、研究を進めた結果、右は該当しない」などと強弁するなら、そこに、安倍氏が一貫して尊重する「法の支配」はない。
誰の耳にも三百代言の詭弁と聞こえる。誰の目にも美しい姿勢には見えない。以後、政府の言うことを内外の誰が信用するだろうか。そのような内閣に「教育再生」を語る資格があるとも思えない。
集団的自衛権に関し「権利があっても行使できない」との政府見解を、安倍氏は同書で「かつての゛禁治産者″の規定に似ている」と酷評した。「国際社会の通念のなかで」「はたしていつまで通用するのだろうか」と疑念を呈した。おっしゃる通りである。だからこそ、私は繰り返し、問うている。なぜ憲法解釈を是正しないのかと。
安倍代議士は文春新書で「闘う政治家」を標榜し「たじろがず、批判を覚悟で臨む」と明言した。ならば、集団的自衛権問題から、歴代内閣の憲法解釈から逃げるべきでない。「個別具体的な類型に即した」姑息な研究ではなく、解釈自体を廃棄・是正すべきである。
恐らく政府関係者はこう釈明するであろう。「憲法について見解が対立する問題があれば、便宜的な解釈の変更によるものではなく、正面から憲法改正を議論することにより解決を図ろうとするのが筋だろうと考える」と。実は、これが内閣法制局とすり合わせた政府の想定答弁である。官邸は「安倍内閣は解釈変更ではなく憲法改正を目指している」と釈明するかも知れない。それが「筋」と認めてもよい。
ならば、最後にもう1度聞く。憲法改正が実現するまでの間に「日本の周辺国有事」が発生したら、どうするのか。憲法(解釈)と米軍兵士の命と、どちらを守るのか。決して突飛な想定ではない。現に、周辺事態と認定可能な国連決議は通っている。
今年2月9日の衆議院予算委員会で質問に立った石破茂元防衛庁長官は、集団的自衛権問題を「恐れず、逃げず、正面から語るべきだ」と迫ったが、安倍首相は従来の政府見解を繰り返すにとどまった。翌10日付産経朝刊によると「解釈変更を表明した場合、内閣法制局長官が辞任するなどの混乱を懸念しているという」。
安倍内閣の姿勢は「たじろがず、批判を覚悟で臨む」との決意を貫いているだろうか。
先日、以上の問題を詳論した新刊『憲法九条は諸悪の根源』(PHP研究所)を上梓した。拙著の思いが、世論を動かし、官邸の主人に届くことを願ってやまない。