月刊正論:4月号から
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産経新聞社「月刊正論」からEISへの提供コラムです。
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「支那事変」「南京」70年で過熱する反日宣伝
中国だけでなく米国でも「大虐殺」の映画が製作され
日本では裁判所が「百人斬り」報道で
名誉回復を求める遺族の訴えを棄却…
プロパガンダの拡大をこれ以上許してはならない(P122〜130)
産経新聞論説委員●いしかわ・みずほ 石川 水穂
■事実認定は遺族側の実質勝訴だった百人斬り訴訟
昨年12月22日、昭和12(1937)年の南京攻略戦で旧日本軍の将校2人が
日本刀で「百人斬り」を行ったとする事実無根の報道で名誉を傷つけられた
として、遺族らが朝日、毎日新聞などを訴えていた訴訟の上告審で、
最高裁は遺族側の上告を棄却する決定を下した。現在、「百人斬り」が
冤罪であることは疑いようのない事実であるだけに、残念な結果だった。
原告側の高池勝彦弁護士は「もともと難しい裁判だった。同じ南京事件を
めぐる名誉毀損訴訟でも、橋本裁判のように名誉を傷つけられたとする当人
が生きている場合は、主として被告側が挙証責任を負うが、遺族が訴えを
起こす場合は、遺族側に挙証責任を負わされるケースが多い。今回のケースも、
遺族側にとり、挙証責任のハードルは高かった」と振り返った。
高池氏が言う「橋本裁判」とは、南京戦に伍長として従軍した橋本光治氏
=都内在住=が、元部下(上等兵)らの著書で「中国人を郵便袋に入れて
火を付けて虐殺した」などと書かれ、元部下らを名誉毀損で訴えた裁判だ。
一審(平成8年、東京地裁)、二審(10年、東京高裁)、三審(12年、最高裁)
とも橋本氏が勝訴した。敗訴した元部下の東史郎氏は判決確定後の昨年1月に
93歳で死去したが、橋本氏は今も健在である。
これに対し、「百人斬り」冤罪訴訟は、南京戦に従軍した向井敏明、
野田毅両少尉が日本刀で中国人の「百人斬り」競争を行ったと当時の
東京日日新聞(現在、毎日新聞)が報じ、戦後の昭和46年、朝日新聞の
本多勝一記者が連載「中国の旅」で「百人斬り」を蒸し返した記事の真偽が
争われた裁判である。
向井、野田両少尉は東京日日新聞の記事がもとで、戦後の昭和22年12月、
南京の軍事法廷で死刑を宣告され、翌23年1月、銃殺刑に処された。2人とも、
無実を訴える遺書を残していた。当人が亡くなっているため、向井氏の次女、
田所(旧姓・向井)千恵子さんと野田氏の妹、野田マサさんら遺族が原告に
なって争ったが、現在の法制度では、法廷で名誉毀損を立証することは極めて
難しい仕組みになっている。
一審(平成17年8月、東京地裁)、二審(18年5月、東京高裁)とも、
遺族側は敗訴したものの、裁判所が東京日日新聞や朝日新聞の記事を
真実であると認めたわけでは決してない。
一審判決は東京日日新聞の記事について、「一般論としては、そもそも
国民の戦意高揚のため、その内容に、虚偽や誇張を含めて記事として掲載
された可能性も十分に考えられるところである」「両少尉の職務上の地位、
日本刀の性能及び殺傷能力等に照らしても、両少尉が、本件日日記事にある
『百人斬り競争』をその記事の内容のとおりに実行したかどうかについては、
疑問の余地がないわけではない」と疑問を提起した。
「両少尉の職務上の地位」は、両少尉がともに上海派遣軍第十六師団歩兵
第九連隊(京都)の第三大隊に所属し、向井少尉が歩兵砲小隊長、野田少尉が
大隊副官を務めていたことを指している。歩兵砲小隊長は敵との距離を
はかって砲撃を命じる役割、大隊副官は大隊長の命令を各中隊に伝える役割を
担っており、日本刀で「百人斬り」をしている余裕などないのが軍事常識と
いわれている。
一審判決に対し、当時、被告側は次のようにコメントした。
毎日新聞社長室広報担当 「当社の主張が認められたものと理解しています」
朝日新聞広報部 「当社の主張を認めた判決と受け止めています」
本多勝一氏 「判決は全く当然の結果だ。原告側はこの事実を否定する
ことで、南京大虐殺や中国侵略そのものを否定しようとしたが、訴訟で
かえって歴史的事実が固められたという感謝すべき一面もある。ただし、
つまらんことで時間をつぶされたことには怒っている」
(平成17年8月24日付産経新聞)
二審判決は記事に対する疑いをさらに強め、「南京攻略戦当時の戦闘の
実態や両少尉の軍隊における任務、1本の日本刀の剛性ないし近代戦争に
おける戦闘武器としての有用性等に照らしても、本件日日記事にある
『百人斬り競争』の実体及び殺傷数について、同記事の内容を信じることは
できないのであって、同記事の『百人斬り』の戦闘戦果は甚だ疑わしいもの
と考えるのが合理的である」とした。
最高裁の決定は上告事由に該当しないことなどを記した簡単なもので、
記事の中身に踏み込んでいない。これにより、遺族の訴えを退けた
一、二審判決が確定した。
遺族は裁判で負けたとはいえ、「百人斬り」競争報道の真実性を否定する
という目的はほぼ達したのではないか。
■中国側の宣伝に乗った「中国の旅」
原告の田所千恵子さんは「私が最も許せないのは、朝日新聞の本多勝一さん
が戦後、『百人斬り』の記事を蒸し返したことです」と本音を漏らした。
「百人斬り」は当初、昭和十二年十二月十三日付東京日日新聞に
「百人斬り゛超記録″」「向井106−105野田」「両少尉さらに延長戦」
との見出しで、次のように報じられた。
「南京入りまで゛百人斬り競争″といふ珍競争をはじめた例の片桐部隊の
勇士向井敏明、野田毅両少尉は10日の紫金山攻略戦のどさくさに百六対百五
といふレコードを作って、10日正午両少尉はさすがに刃こぼれした日本刀を
片手に対面した」
「片桐部隊」は十六師団九連隊(連隊長、片桐護郎大佐)のことだ。
記事を書いた浅海一男記者は亡くなっているが、両少尉の写真を撮った
カメラマン、佐藤振壽氏は以前の産経新聞の取材に、「あれは戦意高揚の
ための記事で、軍の検閲も通っているが、あり得ない話。戦後、浅海君は
『百人斬り』の件で市ケ谷の(連合国側)検事団に呼ばれたが、そのとき、
『あれはほら話』と言えば良かったんです」と証言した。
両少尉と同じ十六師団の通信班長(少尉)だった犬飼総一郎氏も
「両少尉が属していた歩兵第九連隊第三大隊は(中国の)常州付近で、
江陰から退却してきた中国軍(第百十二師)に背後を襲われた。そのとき、
向井少尉も野田少尉も剣道の達人で、白刃を振るい、敵兵を何人かは
切り伏せたかもしれない。紫金山でも白兵戦はあっただろうが、それは
戦闘行為であり、虐殺ではない。しかし、どんな名刀でも、何十人も切れば、
曲がって使えなくなり、『百人斬り』などあり得ない」と話していた。
これらの証言から、七十年前の南京戦当時の東京日日新聞の記事は、
戦意高揚のためにある程度許容されていた創作記事だったことがうかがえる。
戦後、東京日日新聞を引き継いだ毎日新聞は平成元年発行の「昭和史全記録」
で、「百人斬り」報道について「この記事は当時、前線勇士の武勇伝として
華々しく報道され、戦後は南京大虐殺を象徴するものとして非難された」
「ところがこの記事の百人斬りは事実無根だった」と書いている。毎日は
事実上、創作記事だったことを認めていたのである。
一方、朝日新聞は昭和四十六年の連載「中国の旅」で、「百人斬り」を
蒸し返して次のように書いた。
「『これは日本でも当時一部で報道されたという有名な話なのですが』と
姜さんはいって、2人の日本兵がやった次のような『殺人競争』を紹介した」
「AとBの2人の少尉に対して、ある日上官が殺人ゲームをけしかけた。
南京郊外の句容から湯山までの約10キロの間に、百人の中国人を先に
殺した方に賞を出そう…」「2人はゲームを開始した。結果はAが89人、
Bが78人にとどまった。湯山に着いた上官は、再び命令した。湯山から
紫金山までの約15キロの間に、もう1度百人を殺せ、と。結果はAが106人、
Bは105人だった。こんどは2人とも目標に達したが、上官は言った−
『どちらが先に百人に達したかわからんじゃないか。またやり直しだ。
紫金山から南京城までの8キロで、こんどは百五十人が目標だ』」
「この区間は城壁に近く、人口が多い。結果ははっきりしないが、2人は
たぶん目標を達した可能性が高いと、姜さんはみている」(同年11月5日付夕刊)
新聞では仮名だったが、朝日新聞発行の単行本や文庫本では「A」が
「向井敏明」、「B」が「野田毅」と実名に変わった。文庫本は
平成2年発行の第十六刷から「M」「N」と頭文字に変わっている。
田所千恵子さんは、父親が無実を訴えながら処刑された後、千葉に
あった祖母と叔父の家に預けられた。周囲の人が「あの子は戦犯の子供」
とささやく言葉を聞き、「戦犯って何」と聞いて困らせたこともある。
結婚後、朝日新聞に「中国の旅」が連載されて以降、家庭で口論が
絶えなくなった。夫は、会ったこともない向井少尉のことを悪く言い、
離婚を決意したという。
千恵子さんは平成15年7月に東京地裁で開かれた第一回口頭弁論で、
「『百人斬り』が真実なら、どんなことでも耐えますが、うそなのです。
汚名を着せられ、歴史に残るのは残念です」と訴えた。
「中国の旅」には、「百人斬り」のほか、撫順炭鉱などで強制労働の
犠牲になった中国人労働者の人捨て場とされる「万人坑」や、旧日本軍が
焼き尽くし、奪い尽くし、殺し尽くしたとされる「三光政策」などの
残虐な話が書かれている。
本多記者が取材に要した期間は、昭和46年6月から7月にかけての約40日間だ。
北京、瀋陽、撫順、唐山、南京、上海などを回り、中国側の一方的な話を
聞いているが、日本側の裏付け取材はほとんど行っていない。
「万人坑」はその後、昭和史研究家の田辺敏雄氏が撫順炭鉱に勤めていた
日本人の生存者をつぶさに調べた結果、中国側の作り話であることが判明した。
「三光政策(作戦)」なども日本にない言葉で、中国共産党の宣伝である。
朝日に「中国の旅」が連載された昭和46年は、当時の広岡知男社長を
先頭に社をあげて日中友好ムードを盛り上げていた時期にあたる。翌47年、
田中角栄内閣は中国と日中共同声明を締結し、国交を回復した。
本多氏は「中国の旅」の冒頭で、取材動機についてこう書いている。
「戦争中の中国における日本軍の行動を、中国側の視点から明らかにする
ことだった。それは、侵略された側としての中国人の『軍国主義日本』像を、
具体的に知ることでもある。とくに日本軍による残虐行為に重点をおき、
虐殺事件のあった現場を直接たずね歩いて、生き残った被害者たちの声を
直接ききたいと考えた」
日中友好のためとはいえ、「百人斬り」を蒸し返し、中国共産党の宣伝に
加担した朝日新聞の責任は、毎日新聞に比べてはるかに重いといえる。
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このコラムは、毎週水曜日に更新予定です。
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