月刊正論:3月号から
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産経新聞社「月刊正論」からEISへの提供コラムです。
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独り歩きする日露「二等分」論
北方四島は泣いている
大仏次郎論壇賞の授与で奇怪な「解決案」を称揚する朝日新聞。
クレムリンの高笑いが聞こえる(P90〜101)
産経新聞正論調査室長
(元モスクワ支局長) 斎藤 勉
「貴様、何を言うか!」
ソ連・ゴルバチョフ時代末期の晩秋の夜、在モスクワ日本大使公邸内に
怒号が響いた。「ミスター北方領土」と敬愛されていた安全保障問題研究
会(安保研)代表の末次一郎氏が毎日新聞のEモスクワ支局長を烈火の如
く叱責したのだ。ソ連側要人との対話のため訪ソした末次氏を囲む会食を
前に報道各社の支局長との歓談中、E氏がふと、「(北方)領土なんか返
ってきませんよ」と吐き捨てるように漏らした直後だった。
民間人として沖縄返還に心血を注ぎ、その後の人生を「北方四島返還」
の悲願達成一筋に賭けていた末次氏には、絶対に許すべからざる一言だっ
たに違いない。「マスコミと手を携えて共に」との思いも強かった末次氏
だけに、北方領土問題報道の最前線で責任を負う大新聞の支局長の斜に構
えたような発言に、元陸軍中野学校出身の国士の血が逆流したのだろう。
現場に居合わせた筆者(斎藤)も同じように義憤を禁じ得なかった。
その末次氏は六年前、鬼籍に入り、E氏もすでに亡い。いま日本では
「北方四島の全面積(五〇三六平方キロ=ほぼ千葉県並み)を日露で二等
分する」との奇怪な「解決案」とやらが一人歩きしている。これをさも
「一大発見」でもしたように得意気に吹聴する学者がいれば、その学者に
賞を与える新聞社もある。まるでその学者や新聞社の意を受けたかのよう
に、麻生太郎外相まで国会で「二等分案」に言及する始末である。四島全
面積のわずか七%に過ぎない歯舞・色丹の「二島返還論」も依然くすぶり
続け、「二」と「四」の間をとって歯舞・色丹に国後島を足した「三島返
還論」も飛び出している。問題の本質は、「二」より「三」が大きいから
いい、「三」より「二等分」の方が大きいからいい、などということでは
決してない。バナナの叩き売りではないのだ。まさに官民を挙げて戦後一
貫してわが国が要求してきた「四島一括返還」の大原則を、わざわざ自分
の方からねじ曲げてロシア側に迎合しようとする動きが水面下で始まって
いるかのようである。
北方領土問題のぶざまな迷走ぶりに、末次氏はあの世で「貴様、何を言
うか!」を連発して声を嗄らしてしまっているのではなかろうか。この世
には残念ながら末次氏亡き後、対露外交に体を張ってもの申す熱血の政治
家も学者も見あたらない。一見、威勢のよい論文を書く学者であっても、
裏に回ると外務省から金銭的支援を受けていて外務省を批判できなかった
り、過去にロシアに刑事犯罪疑惑や金銭・女性問題などの弱みを握られて
いたり、と信用ならぬ手合いもいる。「二等分案」も、新聞では産経新聞
が「主張」(社説)で「麻生外相は何をお考えか」とくぎを刺したに過ぎ
ない。親分の麻生外相が暴走気味というのに、外務省は一体何を考えてい
るのか、とんとその肉声は聞こえてこない。
石油価格の高騰で「エネルギー大国」となり、ショービニズム(排外的
愛国主義)が復活したロシアのプーチン大統領は「南クリール(北方四島)
の主権はすべてロシア側にある。これは国際法で確定している」と旧ソ連
に先祖返りしたように強硬だ。国家のトップが歴史的な大嘘を公言してい
る。北方領土問題の主導権を完全にクレムリンに握られてしまったから、
「四島返還」の満額回答はとても無理だと勝手にいじけた思い込みから自
ら譲歩し、バナナの叩き売りでロシアの歓心を買おうとでもいうのか。
本格的な戦いに入る前に、ロシアがお願いしてきたわけでもないのに、自
ら鎧を一枚、二枚と脱ぎ捨てようとしている日本。戦後のソ連・ロシアの
実効支配で荒れ果てたわが国固有の北方四島は、初心を忘れようとしてい
る本土の軟弱かつ冷淡な態度にさぞかし前途を悲観し、嘆き悲しんでいる
ことだろう。クレムリンの高笑いが聞こえてくるようだ。
何かが舞台裏で蠢き始めている
゛異変″が表面化したのは安倍晋三新内閣で再任された麻生外相の毎日新
聞との昨年九月二十七日のインタビューだった。領土問題で実質的な進展
が全くなく、誤ったメッセージばかりをクレムリンに送り続けて「対露外
交・空白の五年間」といわれた小泉純一郎前首相時代の殻を破るかのよう
に、外相自身が奇妙な発言を始めたのだ。翌二十八日の紙面によると、記
者の方から唐突にこう質問した。「北方領土問題の解決策として、4島を
面積で分割する案はどうですか」と。
麻生外相はこう答えた。「一つの考え方ですね。2島じゃこっちがだめ
で、4島じゃ向こうがだめ。間をとって3島とかいう話だろ。それで双方
が納得するかですよ。これは役人で決めることはできません。どこかで政
治的な決断を下さない限り、下から積み上げてどうにかなる話ではない。
この問題への解決(への意欲)は、プーチン露大統領の頭の中にすごくあ
るように見えますけどね」
いわゆる「三島返還論」である。しかし、日本の外相が「四島一括返還」
の原則、換言すれば国家主権と国益に関わる代表的懸案である領土問題の
原点から逸脱した「譲歩案」を公然と述べたことは過去にない。果たして、
外相の頭の中に重大な国家主権・国益からの逸脱認識はなかったのだろう
か。それとも外務省が裏で外相を操っているのか。「何かが日露の舞台裏
で蠢き始めている」。筆者はこの時から何となく不気味な胸騒ぎに囚われ
始めた。
事態が動いたのは二カ月半後。麻生外相が十二月十三日の衆議院外務委
員会で民主党の前原誠司・前代表の質問に答え、初めて「北方領土二等分
案」に言及したのである。前原氏が、事実上、外相が毎日新聞に「三島返
還のアイデア」を話したことをまず引き合いに出し、質疑応答に入った。
その内容を吟味すると今後の北方領土問題の行方を占う上で極めて重要な
示唆に富んでいる。両氏のやりとりを再現してみよう(要約)。
前原「二島先行返還(論)の時もそうだったが、大臣は島の大きさを
ちゃんとわかっておられるか。…四島あって(その)半分は二島ではない」
麻生「半分にしようじゃないかというと、択捉島の二五%を残り三島に
くっつけると、ちょうど五〇ぐらいの比率になる」
前原「歯舞・色丹で七%、国後を入れて三島で三六%。択捉は六四%も
あり、すごく大きい。…中国とロシアが(二〇〇四年十月に)国境線の画
定をした時に、互いに半々にした。それに倣えということではなく、原則
は四島だが、この問題を本当に解決するんだという意識があれば、三島と
言い切ってはだめ。仮に半分にまけたとしても、私はまけるつもりはない
が、まけたとしても四島は入るんだというところの認識を持ってこの話は
しておかなくてはいけない」
麻生「ご指摘の通りで、基本的には、この話をこのまま二島だ、四島だ、
ゼロだ、一だと引っ張ったままかれこれ六十年きたわけだが、この状況を
このまま放置しておくのが(日露)双方にとっていいかといえば、これは
何らかの方法を考えるべきではないか。これがプライオリティー(優先順
位)の一番だ。二番目は双方が納得するような話でないといかぬのであっ
て、こっちが勝ってこっちが負けだという話みたいになって双方ともなか
なか合意が得られない。例の中国とロシアの間のダマンスキー島(中国名
は珍宝島)の(国境画定の)時も、いわゆるあれ(二等分を指す)で話を
つけたという例もある。…半分だった場合というのを頭に入れていたので、
択捉島の西半分というか、南のところはもらって初めてそれで半分よとい
う話になる。幸いにして、右というか東方、北東の方に人口は集中してい
るので、そこらのところの人口比が圧倒的に多いのも事実だが、今いろい
ろ交渉していくに当たって、現実問題を踏まえた上で双方どうするか、十
分に腹に含んだ上で交渉に当たらねばならぬと思っている」
前原「周辺環境も含めて日露関係は相当テコ入れしなければいけない時
期だと思う。この辺で政治がリーダーシップとしてやる時期、そしてまた、
プーチン大統領というのはそういう求心力のある大統領だと思っている」
麻生「これは事務レベルで話がつくとは思わない。政治決着以外に方法
はないと思う。プーチンという人は、これはどう考えてもかなりの力、圧
倒的な力と言ってもいいぐらいのものをロシアで持っていると思っている。
従って、この人のいる間に話の決着を試みるべき。…何らかの形で解決す
る方法の時期としてはいい時期に来ているのではないかというご指摘は、
私もそのように思う」(括弧内は筆者注)
安倍政権は「四島返還」
放棄なのか
麻生外相はこの答弁の二日後、記者会見で「二等分案」の真意を尋ねら
れ、「政府部内で面積割りでやると具体的に検討されている事実はない」
と明言した。鈴木宗男衆院議員は河野洋平衆院議長宛にこの答弁の詳細や
背景説明を求める質問主意書を連発したが、「外務省としては、中露間の
国境画定と北方領土問題とは、それぞれ歴史的経緯が異なっており、両者
を単純に比較することは適当でないと考える」と回答している。ロシア側
もロシュコフ前駐日大使が在任中、「中露方式は日露には適用できない」
と言明している。
そうであっても、麻生外相の答弁内容を分析した筆者の結論を率直に明
かせば、安倍政権・外務省は現実には半ば「四島返還」の原則的立場から
離れる可能性を視野に入れ始めており、すでに「二等分案」を領土交渉の
落としどころの一つとみて相当踏み込んで検討している印象を受ける。
なぜか−−。これは筆者の推察だが、「四島」ではクレムリンは納得させ
られないが、「折半」ならロシアは中国との間で妥協したから日本にも折
れてくれるかも知れぬ。しかも、最大の択捉の大半は、現在ロシア人が集
中的に住む東方を含めてロシア側に残る。日本も「四島」全部の返還とは
ならないが、「折半」なら返還領土は四島にまたがるから国民を何とか説
得できる。これは名案だ。これなら双方が受け入れ可能だ。そんな発想は
果たして政府・外務省内になかったろうか。
先の質問主意書への回答によると、麻生外相は領土二等分をめぐる四島
の面積の質問などは事前には知らされておらず、外相がその場で答えたこ
とが分かった。つまり、「択捉の二五%+国後・歯舞・色丹の三島=四島
の半分」という計算結果や、択捉の東方に人口が密集している事実などを
外相がスラリと答え、中露領土問題の「二等分最終決着」についても公式
回答とは裏腹に、外相はかなり勉強した形跡がうかがえる。
それに不思議なのは、九月末の報道各社インタビューといい、外務委員
会答弁といい、外相の口から一切、「あくまで四島返還の方針を維持する」
趣旨の言葉が出てこない点だ。これだけでも、原則を死守すべき日本の外
相としての威厳や筋はどこに行ったのか。事態は「(外相)殿、ご乱心か」
のレベルの話なのだ。外務省筋は筆者に「各社インタビューも外相答弁も
政府の立場と関係ない個人的な考え」と否定した。そうであるなら、なぜ
外務省は必死になって外相発言を打ち消す公式声明などを出さなかったの
か。外務省の相も変わらぬ不作為に国民は戸惑い、不信感を募らせるばか
りだ。
気掛かりなのは与党・自民党ばかりではない。野党・民主党も大いにぶ
れている。前原氏の「まけたとしても四島は入るんだというところの認識
をもって…」という発言は「二等分最終決着」になってしまった事態をい
まから想定し、国民への釈明まで考えているかのようにも受け取れるので
はないか。
外相答弁に対する新聞各社の論評は、産経新聞以外はこぞって肯定的だ
った。朝日新聞は「北方領土 解決策探る動き」との見出しで、「領土問
題で前進があれば、支持率が下がっている安倍政権の浮揚につながる」と
の政府関係者の話を紹介、「中韓との関係改善が進み、次の外交の目玉は
ロシアだとの認識も出始めた」と指摘した。毎日新聞は「麻生氏は外相再
任後、毎日新聞のインタビューに対し『3島返還論』に言及したが、領土
問題解決に向けさらに柔軟な姿勢を示した形だ」と評価してみせた。読売
新聞まで「停滞する交渉に一石」と、これも期待感がこもっている。偶然
か、それとも何なのか。まるで外務省と与野党、朝毎読三紙が「四島」逸
脱で足並みを揃える大きな流れができたかのようだ。
北方領土問題は、第二次大戦末期に日ソ中立条約を一方的に破って日本
に参戦してきた独裁者スターリンのソ連が、満州や朝鮮半島などから日本
兵らを強制労働に使うため六万人(公称)もシベリアに拉致、連行したの
と並行して、一九四五年八月十五日の終戦直後に日本固有の北方四島を次
々と不法に占拠したことに淵源がある。国際法を蹂躙したその蛮行は、北
朝鮮による日本人拉致事件と同様、スターリニズムという共産主義の体制
悪が生んだ国家犯罪にほかならない。筆者に言わせれば、「領土・シベリ
ア抑留・拉致」は三位一体で解決への連帯を訴えるべき戦後の重大事だ。
繰り返して言うが、いずれも日本側には一点の非もない国家犯罪であり、
発生からどんなに長い歳月が経過しても日本側から進んで譲歩するべき性
格の話では断じてないのだ。
日露両国が平和条約を締結して戦後処理を完結させるには、ソ連の後継
国家ロシアが国家犯罪として奪取した四島をそっくり返還するしか解決策
はないのである。二島でも三島でも二等分でも戦後処理にはなりえない。
日本が「四島」要求を放棄すれば、スターリンの犯罪を日本が認めてしま
うことにもなる。それを前例に国益・国家主権が絡む他の問題でも各国か
ら不本意な譲歩を迫られ、千載に禍根を残す羽目となろう。北方領土二等
分論者や三島、二島返還論者の頭の中からはこの歴史の重みがすっかり抜
け落ち、バナナの叩き売り、あるいはゲーム感覚の数合わせのような発想
しかない。
彼らはロシアが共産党支配時代から得意とする工作対象国の世論分断に
自ら加担の手を差し延べ、クレムリンをほくそえませていることに気づい
ていない。麻生外相は外務委員会答弁の中で「金で話をつけたアラスカや
ニューオーリンズの例」も挙げているが、北方領土問題は国際商取引で売
買された領土とは歴史的経緯も性格も全く異次元である。中露国境の二等
分最終画定ともども、同列に論じること自体が筋違いなのだ。
拉致被害者が仮に百人だったとして、半分の「五十人」を奪回して日本
が北朝鮮と手打ちをすれば、それが最終解決なのか。日本国民は納得する
のか。
「二等分」論者に大佛次郎論壇賞
昨年十二月十三日朝。筆者は朝日新聞の記事に思わず目を剥いた。「北
方領土二等分論」の゛発信源″でその熱心な唱導者的存在とみられている
学者の著書が「第6回大佛次郎論壇賞」(朝日新聞社主催)を受賞したと
報じられていたからだ。北海道大学スラブ研究センターの岩下明裕教授
(44)の著書『北方領土問題』(中公新書、二〇〇五年十二月刊行)であ
る。しかも、この日に国会では麻生外相が初めて「二等分案」に言及して
いた。まるで外相を援護射撃するが如き岩下教授の受賞発表であり、偶然
だろうが絶妙なタイミングだった。朝日が独自に創設した賞を誰に与えよ
うともちろん自由である。しかし、受賞対象が国家主権・国益に直接関わ
る重大事となると、これは見過ごすわけにはいかぬ。
率直な疑念を先に言えば、「四島返還」の原則からの逸脱派の岩下氏へ
の授賞はいかがなものか、との論議は果たして、朝日内部で起きなかった
のであろうか。
岩下教授は旧ソ連・ロシア専門家の間では中露国境研究で知られる。
同著は第一部で「中ソ(露)国境問題はいかに解決されたか」を約十年に
及ぶ現地調査を含む研究の成果として詳述し、第二部では「日ロ国境問題
をいかに動かすか」で北方領土問題への適用の道を探っている。授賞理由
について朝日は記事の前文で「岩下教授の作品は、日本とソ連・ロシア間
の北方領土問題と同様の困難さを抱えながら解決に至った中ロ国境問題の、
妥協への道筋を丹念にたどる。それを合わせ鏡のように参照しながら、北
方領土問題解決への方策を探る豊かな提言性が高く評価された」と説明し
た。「力作」にふさわしい賛辞ではあるが、同著を一読して感じるのは、
中露領土交渉の画期的な成果を何とか北方領土問題解決に無理矢理こじつ
けようとする涙ぐましい「努力」である。
「二〇〇四年十月は、閉塞していた日ロ交渉にこれを動かす一つのきっか
けを与えた。最後に残された係争地の島を中国とロシアがフィフティ・
フィフティで分けあったと伝えられると、とくに日本側は驚愕した。…日
本の大多数の関係者や専門家にとっては、決着そのものはもとより、その
決着のやり方自体も寝耳に水だったからだ。中ロの解決と同時に、ロシア
側に次は日本との交渉だとの声が起こったのも影響した。中ロの経験が日
本にも適用しうるのではないかとの予測が広がったからである」
(同著一四五頁)
中露の国境画定が「驚愕」するほどの出来事だったかはともかく、岩下
氏は日露交渉に適用した場合の「シミュレーション」として@段階交渉方
式A最終段階での大胆な政治的妥協(フィフティ・フィフティ)B解決を
スムーズにするための「共同利用」−などを提言する(一五六頁)。一方
で、中露と日露の違いについても「違いをあげれば、きりがない」と率直
に書き、「地理的な相違が歴史上の関係の相違を生み出す。中ロ国境は
十九世紀後半以来、ソ満時代も含めて、絶えず軍事衝突と緊張の源であっ
た。日常的な紛争も頻発したが、とくに中国側は二十世紀において何度か、
川の島嶼を取り戻そうと試みてきた。その最たる事件が一九六九年の珍宝
島事件であった」(一四九頁)などと指摘してもいる。
ただ、一年以上前に出版された同著では岩下氏は結論として「二等分案」
が適用できるとは明確に提言していない。ところが、同じ昨年十二月十三
日付の朝日夕刊に「大佛次郎論壇賞受賞に寄せて」として執筆した「日ロ
国境 50・50の勇気を」と題する論文では、「日ロ間に『フィフティ・
フィフティ』は適用できるか。出来ると私は考えた」と断言している。受
賞で自信を深めたのか、「本書は『フィフティ・フィフティ』に基づき、
日ロが相互に譲歩して平和の配当を受け取るシミュレーションを行った。
これによって日本は国家としての威信や国益を十二分に守れる、国境地域
の住民や旧島民たちの多くもこれを受け入れうるという結論を得た」とも
表明している。
択捉島の西方に国境線を引いて二等分すれば、中露と同様の「平和の配
当」が得られるといわんばかりの論法だ。しかし、そんな保証はどこにも
ない。昨夏、歯舞海域で起きて死者を出したロシア国境警備艇による日本
漁船銃撃事件で、ロシア側はまだ領土交渉が継続中で国境線など引かれて
もいないのに、「国境侵犯」容疑で漁船を勝手に国後島に連行し、一方的
な裁判で船長を「有罪」にしたばかりではないか。
日露にとって、「平和の配当」とは、岩下氏が唱える「フィフティ・フ
ィフティ」なる不完全な戦後処理によっては決して訪れはしない。「民主
国家」を自称し自由と民主主義、市場経済の価値を共有すべき主要八か国
(G8)の成員であるロシアが、その価値とは対極にある「スターリンの
国家犯罪」を認めてその「負の遺産」を全面的に清算した時、つまり、日
本人のロシアへの歴史的不信感と嫌露意識が消えた時、初めて期待しうる
のだ。「負の遺産」の清算とは、言わずもがな、約六十万人の日本人が命
を落としたシベリア抑留問題を最低限、文書で公式に謝罪し、北方四島を
全面返還することである。
完全な戦後処理を日本が自ら断念して「二等分」で折り合ったりすれば、
岩下氏が「十二分に守れる」と言う「国家としての威信や国益」は逆に大
いに傷ついてしまう。それゆえの歴史的悔恨は未来永劫に日本国民を苛み
、ロシアへの不信感、嫌露意識はいまと変わることなく燻り続けるだろう。
重ねて言うが、事態はまさに逆なのだ。二等分決着することは「50・50の
勇気」ではない。それは「50・50の国辱」あるいは「50・50の亡国」にな
ってしまう。そのことに覚醒する必要がある。「勇気」とはソ連に侵害さ
れた北方四島の主権を日本にそっくり奪回する国民的意思を忍耐強く持続
させることに他ならない。
岩下氏はまた、受賞論文で「全てをとれるまでゼロで待つ」「一歩も譲
るな」という「一部報道」に「憂いを感じる」とし、「『勇敢さ』は敬意
に値するが、より重要な利益を守るために、時には折り合う勇気をもたね
ばならない。…互いに折り合う精神はまた国内政治にも肝要だ」とも書い
ている。だが、「四島」要求に固執するのは「勇敢」でも何でもない当然
のことだ。
冷静に判断すれば、何のことはない。岩下氏はスターリンによる国家犯
罪だけに起因する北方領土問題の本質、淵源などは十分承知していながら、
それにはあえて意識的に蓋をし、何とかロシア側に擦り寄ろうとしている
だけの話ではないか。その背景にはのっけから「四島返還」への奇妙な諦
めがある。
岩下氏は十二月十三日付朝日朝刊の受賞記事には「4島返還以外の道を
考えずにここまで来て、何か一つでも得たものがあったでしょうか」との
談話を寄せている。『北方領土問題』でも「重要なことは、私たちが目指
し続けてきたゴールそのものが、果たして実現可能なものだったかどうか
を忌憚なく検討することだろう。すでに日本政府や関連団体が長年にわた
って、四島返還に向けて血のにじむ努力と行動を尽くしてきたことは自明
である。だがそのような私たちの立場を、ソ連やロシアが本気で受け入れ
るようなチャンスがあったのか。これを客観的に検討すべきであろう」と
書いている。
では、岩下氏にお聞きしたい。四島以外の道、二等分案や三島、二島返
還は「四島」より実現容易なのか、それはなぜか。それで得られるものと
は何なのか。「ソ連やロシアが本気で受け入れるようなチャンスがあった
のか」などと、なぜロシア側の立場にばかり思いを馳せ、日本の原則的立
場は引き下げる必要があるのか。明確にお答えいただきたい。
北方領土の最先端、根室で足かけ十八年も領土問題をウオッチし続けて
いる執念のジャーナリストがいる。毎日新聞の本間浩昭記者だ。彼は昨年
十一月三十日付の「記者の目」で「四島返還」以外の「現実的な解決策の
提案」をする同じ毎日新聞の飯島一孝記者の立場を排した上で、「機は突
然到来する。この18年間にチャンスは3回あったと思う」として@89年の
ベルリンの壁崩壊後A91年のソ連崩壊後B94年の北海道東方沖地震の後−
を挙げている。そして「いずれの好機にも日本は十分なシナリオを準備し
ていなかった。とりわけAを逃したのは痛手だった。『どうして日本は一
気に動かなかったのか』。平和条約締結に向け、最大の懸案である領土問
題に関心を寄せるロシア人から何度そう言われたことだろう。『あの時な
ら何でもありだった』」と振り返る。岩下氏は「チャンスがあったのか」
と開き直る前に、この本間記者の分析をどう判断するのか。
筆者は岩下氏の受賞を産経新聞の記者ブログで紹介した。
(http://saitob.iza.ne.jp/)
その結果、読者からは「すべてを二で割るといった腹芸は、日本の政治に
は通用してきたかも知れませんが、最近とみに独裁化を強めているロシア
には、敵に塩を送る行為以外の何ものでもないと思います」などと十件近
いコメントをいただいた。岩下氏に同調する意見はなかった。
中露の国境の手打ちについては単なる技術論ではなく、「ソ連崩壊で弱
体化したロシアには、核と膨大な人口を抱えて経済成長を続ける中国は潜
在的な脅威だ。長大な国境の問題を早急に解決して安定と互恵の土台をつ
くる必要があったという側面も考慮に入れるべきだ」(内藤泰朗・産経新
聞モスクワ支局長)といった、戦略的な分析が不可欠なのである。
露に弱み握られ身動きできぬ
外務省
小泉純一郎前首相時代を「対露外交・空白の五年間」と書いたが、小泉
氏は四島を日本の領土と定めた日露通好条約締結百五十周年という、任期
中の対露外交で最も重要な節目の平成十七年二月七日の「北方領土の日」、
そして昨年の同日と、東京での領土返還要求全国大会を二年続きで欠席し、
クレムリンを喜ばせた。小泉外交を支えるべき外務省のロシアスクールの
トップの西田恒夫前外務審議官(現駐カナダ大使)、原田親仁欧州局長、
松田邦紀ロシア課長は鈴木宗男・衆院議員が二年前の『週刊新潮』に連載
した通り、司直の手が入ってもおかしくないようなスキャンダルまみれだ。
スキャンダル自体は当然指弾されるべきだが、さらに悪いのはその詳細が
クレムリンに筒抜けになっており、彼らの弱みを握られているために対露
交渉能力を著しく低下させていることである。ここに、漁船銃撃事件や、
日本企業が参加する石油・天然ガス開発事業「サハリン2」へのロシア側
の強引な経営権奪取劇はじめ、何が起きても対露外交陣がロシアに強硬な
モノ言いができず、ひたすら畏まっている主な理由の一端がある。
昨年十月十九日は日本とソ連(ロシア)が国交回復を決めた日ソ共同宣
言締結の五十周年記念日だったが、安倍新政権はこれを一切無視し、公的
な記念行事は全く行わなかった。「不作為の五年間の延長だ」との陰口も
たたかれた。政府・外務省は、この宣言は「ソ連は平和条約締結後に歯舞
・色丹の二島を引き渡す」と二島の返還だけをうたったものだとして沈黙
したが、この対応は明らかに間違っている。
宣言に明記こそされていないが、日ソは「国後・択捉については国交回
復後の平和条約交渉の中で話し合う」ことで合意している。この点を外務
省は絶好の節目を迎えて国民に広く説明し、「四島返還」への不退転の決
意を改めて世界に訴える術を考えるべきだった。
モスクワではこの日、民間レベルの「日露友好フォーラム」が催された
が、日本側参加者からは国益もへったくれもない愚かな意見が相次いだ。
特に共同宣言に調印した鳩山一郎首相に同行した河野一郎農相の孫、河野
太郎衆院議員(自民)は「祖父は(ソ連側交渉団の)ミコヤン副首相と
ウオツカをやって倒れてしまった」などと他愛ない昔話を披露したあと、
こう述べた。「二と四の間を取り、国後と択捉を合計した面積を日露で折
半する選択肢も十分あると思う。プーチン大統領の任期中に双方は譲り合
って解決しなければならない」。祖父の河野農相が「米国が沖縄を返す時、
ソ連は国後・択捉を返していただきたい」と真っ向から迫ったのに比べて、
明らかに後退発言であった。
フォーラムには岩下教授らも参加していた。しかし、学者たちの発言も
軒並み原則を逸脱した内容だった。「歯舞・色丹にプラス・アルファを積
み上げるべきだ」「領土『主権』の概念自体を問い直し、主権の共同化も
検討すべきだ」等々。中には、バルト海のオーランド諸島をめぐるスウェ
ーデンとフィンランドの紛争解決のノウハウを北方領土問題にも応用しう
るとの戯けた案まで飛び出した。最初の麻生発言からモスクワ・フォーラ
ム開催までに北方領土への日本の対応の大きな流れは奇妙な方向へと逸れ
ていってしまった感がある。
朝日新聞の若宮啓文論説主幹はこのフォーラム出席から帰国後、十一月
二十七日付の同紙「風考計」欄のコラムで河野議員らの発言を紹介。「四
島返還を主張する限り、筋は通っても島は還らない。それでいいのか」と
決着論が次々に飛び出したと書いた。その上で中露の「フィフティ・フィ
フティ」決着、麻生外相の「3島返還」論をも引きながら「プーチン大統
領の任期はあと一年余りしかない。もし安倍首相が思い切って仕掛けるな
ら、この一年が勝負どころだろう。それは『50年周期』の法則にかなうこ
とでもある」と論じた。
「50年周期」とは「1855年の日露和親条約」、「(日露戦争で)サハ
リンの南半分が日本に割譲された1905年」、そして「1956年の日
ソ共同宣言締結」を指すのだそうな。だから向こう一年で一気に「領土解
決」に持ち込み、「50年周期の法則」とやらを確固たるものにしたいらし
い。期待はわからぬでもないが、日本の国家主権を軽んじたあまりに軽く
強引な筋立てに、筆者は不快感を覚えた。ちなみに、若宮氏は大佛次郎論
壇賞の審査員の一人でもあり、岩下氏の同賞受賞はこのコラムの約二週間
後に発表されている。
「その時」に向けて備えよ
なぜか、日本だけが熱くなっている。麻生外相はじめ、なぜ「プーチン
大統領の任期中に解決を」と同大統領にかくもご執心なのか。いたずらに
幻想を抱くのは、旧ソ連のDNAをしたたかに受け継いでいるプーチン大
統領の本性、本当の怖さに気づかない能天気さからきている。体制批判で
著名だった女性ジャーナリスト、ポリトコフスカヤさんの暗殺、それから
派生して世界を騒がせているKGBの後継機関、連邦保安局(FSB)の
元幹部、リトビネンコ氏毒殺事件等は、漁船銃撃事件や「サハリン2」問
題などと決して別個の問題ではない。すべてプーチン政権ならではの「警
察国家」的な同じ土壌から噴き出している。
すでにロシアは法治国家では毛頭無いとの認識が必要だ。そもそもプー
チン大統領はソ連末期、東ドイツでスパイだった頃、ベルリンの壁の崩壊
阻止に動いた人物であり、いまは北方領土を奪ったスターリンの崇拝者で
ある。エリツィン時代までに国内から一掃されたはずのスターリン像が現
在、あちこちで復建されている。「領土は血だ」とロシアに関連するすべ
ての領土問題を司る軍の情報機関、参謀本部情報総局(GRU)本部は最
近、偉容を誇る新ビルに移った。北朝鮮の金正日総書記とも気脈を通じ、
その誕生日にはロシア産の白馬三頭を贈ったこともある。
対日関係で言えば、プーチン政権のKGB化で、領土交渉のロシア側の
陰の、そして真の主役はソ連時代同様、KGBとGRUの二大情報機関に
取って代わった。ロシア外務省日本部は単なる執行機関に過ぎない。こう
した中で、シベリア抑留の日本人に共産主義の洗脳を行い、領土問題でも
謀略工作の責任者だったコワレンコ元ソ連共産党国際部副部長(〇五年七
月死去)の取り巻き勢力がソ連崩壊後の長い沈黙を破ってプーチン政権で
重みを増していることも不思議でない。
コワレンコは「日本人は脅せば譲歩する」とうそぶいた男である。日本
が譲歩すれば、ロシアは嵩にかかってさらに攻めてくる。「未曾有の石油
景気で日本の資金を必要としなくなった」(日露関係筋)ロシアはいま、
端から領土問題の解決を望んでなどはいない。まして今年末には国家院
(下院)選挙があり、来年三月にはプーチン大統領が腹心を候補者に立て
ようとしている大統領選挙を控えている。この重要時期にプーチン大統領
が口先で何を言おうと「領土で譲歩」の発想があろうはずがない。
ラブロフ・ロシア外相は麻生外相の「二等分」発言に「公に過激な発言
をするのは平和条約締結の道を見出すための対話にはつながらない」と批
判した。ロシア外務次官も経験した知日派のクナーゼ氏は「(麻生発言は)
領土の歴史も問題の本質も理解していないナイーブな人物の発言」とまで
揶揄しているのだ。大統領支持の青年政治組織「若いロシア」の活動家約
二十人は昨年暮れ、麻生発言に抗議してモスクワの日本大使館前で集会を
開き、「第二次大戦の結果を受け入れろ」と気勢をあげた。ロシア国防省
機関紙『赤星』も「日本のロシアへの領土要求姿勢に変化はない。(日本
は)軍事愛国教育を通じて強国復活を目指している」と警告、日本を新た
な「潜在脅威」と警戒する声も上がっている。
さりとて、落胆も悲観も無用だ。ロシアがよもやソ連同様、解体する事
態は当面は予想しがたいが、ロシアはいま現在、経済発展を石油、天然ガ
ス、武器と「不労所得」にだけ頼り、堅実な成長の土台となるべき製造業
などの構造改革は一向に進んでいない。加えて、エネルギー生産がひとた
び壁にぶち当たった時、石油成り金と一般庶民の貧富の差や底なしと伝え
られる腐敗・汚職がピークに達した時、そして日本以上の人口減少に中国
の膨張が切迫した脅威として迫った時…と想定外の「機は突然到来する」
(本間記者)やも知れない。
特に石油の動向はクレムリンの立場を大きく変化させる。一九七〇年代
半ばに石油価格が高騰すると、時のブレジネフ政権はそれまでのデタント
(緊張緩和)政策から対西側強硬姿勢に転じた。八〇年代半ばに再び石油
価格が低迷するや、ソ連にはペレストロイカ(再編)のゴルバチョフ政権
が登場して西側に擦り寄った。
ロシアの国家基盤は一皮剥くと意外に脆弱なのだ。「必要としなくなっ
ていた」はずの日本が再び存在感を増し、「北方四島を全面返還してこそ
真にロシアの国益に資する」との現実をクレムリンが衷心から悟る−−。
「その時」に向けて、いま日本は、焦らず、揺るぎなく、ロシア、そして
世界の良識ある世論に広く歴史的正当性を訴える種蒔きを地道に続けてい
くべき覚悟が必要だ。直近ではこの二月七日の「北方領土の日」、安倍首
相は必ず九段会館での領土返還要求全国大会に出席することだ。戦後六十
二年といっても、領土交渉の主な相手は国際法を平然と踏みにじる共産党
政権だった。ソ連が崩壊してまだ十五年ではないか。全国の「四島返還」
運動家たちよ、くじけるな。歴史的正義は最後には勝利しなければならぬ。
「正論」平成19年3月号
産経新聞正論調査室長(元モスクワ支局長)
さいとう・つとむ 斎藤 勉
略歴
斎藤 勉氏
昭和24(1949)年、埼玉県生まれ。
東京外国語大学卒。
産経新聞入社。
社会部、外信部などを経てテヘラン特派員、モスクワ支局長、
ワシントン支局長、外信部長などを歴任。平成16年より現職。
一連のソ連・東欧報道でボーン・上田記念国際記者賞、
「ソ連、共産党独裁放棄へ」のスクープで日本新聞協会賞受賞。
著書に『スターリン秘録』『日露外交』など。
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このコラムは、毎週水曜日に更新予定です。
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